魔法使いの街と魔法使いの話・1

 世界はかつて、球形だった。
 ある日、ラバンの根が崩壊して、世界の半分が失われた。
 不完全な世界を哀れに思った神は、半分の世界を叩いて伸ばし平坦にした。
 以来、世界の果てでは水が無限に落ち続ける。

 窓際の席に座ったルウは、右手で頬杖をついてぼんやりと外を眺めていた。
 伝説と歴史に関する授業はつまらない。ヒステリックな眼鏡の教師が話す話ならば、もう何度も聞いているから、聞き取りにくい声を、右から左へ流したって構わない。それよりも、目下ルウの興味は、はるか彼方を浮遊しているのだった。
 魔法院の教室からは、どの窓からも眼下に魔法使いの街が見渡せる。大昔に、要塞として作られた建物だから、絶壁の上に建てられ海岸を背にした形の魔法院は、この街の中心を担っていると言ってもいい。街の旧市街へと下っていくアリューシェ通りが、ルウの教室からでも見える。それは、砂鉄の上に引いた一本の線のように、街の真ん中を通って、噴水の広場へと至る。その先は細かい路地へと分かれているが、その一本をさらに南に下っていけば海辺に出た。
魔法使いの街は、南の果ての海に面している。
はるか海面には、異国からの船が何隻か見えた。大陸の外側を回って、ルウが見たこともない別の国からやって来るのだが、そのほとんどは、魔法使いの街にはやってこない。外海からでは街の姿は見えないからだ。仮に見えたとしても、迷信深い外の人間は、魔法使いを恐れて近づく事はないのだった。
それよりさらに遠い海には?異国の船も行ったことのない遠海には、一体なにがあるのだろう。本当に世界の果てを見た者がいるのだろうか。いいや。そんな人間、いるはずがないのだ。だれも、世界の果てのその先を知っている人はいない。その先を、見た者がいないからだ。
季節は、夏の初め。ごく変化のないつまらない午後の授業。魔法使いの少年ルウはずっと海の彼方を夢見ていた。

「ルウ。聞いていますか?」
 ふいに鋭い声がルウの夢想の中に割り込んできた。はっとして顔を上げると、細い目のクロア女史が、神経質に教科書を弄びながら目の前に立っていた。
「え…と、あ…はい」
「では、ラバンに関する諸説の中から、1つを論じてみなさい」
答えは簡単だった。空想的な悪魔の象徴だとか、歴史上存在した機械文明の具現体だとか、別世界から現れた存在だとか、単なる迷信だとか。なんだっていい、答えさえすればいいのだ。それなのに、ルウはなにも答られなかった。じっと見下ろされる鋭い目つきと、教室中の好奇に満ちた視線に、彼は言葉を失い、混乱し、見るものが浮遊する。
「えっと…」
「ルウ」 また呼ばれて、慌てて上を向く。クロア女史は、眉間に皺を寄せながら大げさに咳払いをした。
「あなたの思考は、はるか海の彼方にあるようですね」
「…はい。そうみたいです」
 素直に答えたけれど、ヒステリックな魔女の機嫌は上向くところか、さらに悪い方向へ向いてしまったらしい。彼女は、こめかみを震わせて、ただでさえ細い目をつり上げた。
「私くしの話も聞かず、一体なにを学ぶというのですか?あなたは。”ラムダの書”に書かれた歴史を正しく学ぶことが、我々魔法使いの正当なる勤めであると、あなたの両親は教えていないのですか!?」
 ルウは、自分のことだけでなく、両親や家族のことまでとやかく言われる筋合いはないと言ってやりたかったが、頭上から繰り出される金切り声を聞きながらも何も言わなかった。口答えすれば、きっとまた悪い知らせが家族のもとへ届くからだ。
 細かいことにはほとんど頓着しない魔法使いの気質を以てしても、大家族の末っ子として生まれたルウの非行は、一族中で問題視されていることを、彼自身がよく知っている。特に、このクロア女史は、あることないこと尾ひれをつけて、さも大惨事であったかのように報告しかねない。
 ルウは、この情緒不安定な魔女が大嫌いだった。
「あなたのような末子を持って、ご両親もさぞ苦労なさっているでしょう。お兄様やお姉様方は、優秀な成績で学院を卒業していったというのに…あなたときたら…」
「先生!」
 小言を聞き流そうと努力していたルウの頑なな精神を打ち破る一声は聞こえた。それまで、ひそひそと忍び笑いをしていたクラスメイトたちの声が一瞬のうちに静まり返り、クロア女史を含めて、ルウに向けられていたすべての視線が、声の方へとむけられる。
「なんですか?セト」
 自分の独壇場を奪われたと見て、クロア女史はひときわ鋭い目で、声の主を見た。黒い髪の陽気な少年セトは、それにひるむことなく、にやりと笑って席を立った。
「海の向こうには何があるのか、教えてください」
 その口調は、魔法院へ入学したばかりの低学年生のようだった。幼稚でいて、権威を小馬鹿にしたような響きに、ヒステリー直前の魔女は長い髪が怒りに呼応するようにざわりと逆立つのをルウは見た。
「たった今、私くしが読み上げた本の一説を朗読してみなさい」
 震える声で言うクロア女史に、セトは。
「落ちた水はどうなるんですか?」
 とおどけて答える。
「あ…あなたは、ラムダの書を愚弄するつもりですか!?」
「もしも、再利用されない水なら、先生の血も涙もない目の中に一滴でも貰えばいいじゃないですか。そうしたら、少し遅めの結婚もできますよ」
 教室内にどっと笑いが起こる。変わりに、クロア女史の顔が真っ赤に腫れ上がって、今にも爆発しそうな雰囲気を間近に見てしまったルウは、慌てて、セトにやめるように手振りしたが、少々手遅れだった。
 魔女の持っていた鉛筆がぽきりと情けない音を立てた瞬間、バァンと大音響と一緒にガラスの嵐が教室内を襲った。真っ暗な雲が室内を覆い、机も本も鉛筆も鞄も、ありとあらゆるものが竜巻に吹き飛ばされる。
悲鳴と驚きの声で騒然となる生徒をよそに、魔女だけは悠然とそこに立ち尽くしていた。魔女は、髪を逆立て、両の目を真っ赤に燃やしている。たぶん、その姿は見せかけだけの圧力なのだとルウは知っていたが、それでも、間近で魔法を行使するのを見てしまっては、足が震えて、うまく立っていられない。
たとえ、ヒステリー持ちでも、生徒に嫌われていても、魔法院の教官たる者、怒らせた時は怖い。それは教訓だ。
『末代までの呪いを受けたくなければ、廊下で立っていなさい!!セト』
 髪を逆立てた赤い魔女の声は、割れんばかりに朗々と教室を鳴らす。誰もが、恐れ、驚き逃げ惑う教室の中でセトだけは、満足そうに笑っているのをルウは見ていた。
「呪いなんていりません。先生。僕らは廊下に出ています」
 セトはにやっと笑うと、ひらりと身を翻した。かと思うと、ルウの手をしっかりと握り締めていた。
「どうぞ、授業を続けてください」
 ぐい、と引っ張られて、ルウは抵抗する間もなく、嵐に荒れ狂う教室を抜け出していた。廊下はしんと静まり返っている。
 背後で響いていた轟音がしだいに静かになって、しだいに消えてなくなった。たぶん、クロア女史が平静を取り戻し、あわてて、壊れた教室を修復したのだろう。個人的な感情のままにものを壊したとしても、それをさっと魔法で修復して、何食わぬ顔で授業を続けられるのは、魔法院の教師の特権である。
 たとえ、ヒステリックなクロア女史であったとしても、咎めはルウとセトに回ってくるのだ。
 だが、ふと横目にみたセトはやけに満足そうで、まったく反省の色はない。
 それもそうだろう。少なくとも、午後の襲い授業はサボる口実ができたからである。