白い花と赤い花の話

 これから大河へ流れ込もうとする、細い川の石造りの橋を渡りきったところで、アルファは足を止めた。古びてはいたが、しっかりと地に打ち立てられた標識には、目下の目的地、南方のイシェ地方の商業都市であるバスカーニまであとわずかだと書かれている。
「魔法使い!」
 背後から聞こえた声は、張り上げてはいても切れ切れな、声の主にしては弱い声音だった。体力自慢のこの男にしては珍しいと思い、アルファは振り返った。
「どうかしたのかい?銃使いロー」
「・・・どうもこうも、あるか!」
 年若い男は、はぁはぁと荒い息をつき、今にも倒れこみそうな様子で、橋の欄干に寄りかかっている。顔色は悪く、ひどく汗を浮かべた額は、熱を発しているらしい。どう見ても、病人の症状だった。しかも、かなりの重病人である。
「見たところ病気のようだ。何か悪いものでも食べたのか?」
「・・・知ったことか・・・」
 共に旅をしているとはいえ、特に交わす会話もなければ、ともに食事をするわけでもない、立ち寄った街でも別々の部屋に泊まるし、一緒に何かを成し遂げようとしているわけでもない。ましてや、年若い銃使いローは、魔法使いと馴れ合うことを嫌う傾向にあるから、たとえ病気を患ったとしても、助けを求めるようなことはしないし、あえて助けてやろうともしなかった。
 そのローが、必死に声を上げたのだから、相当なことだ。
 アルファは、相手が嫌そうな顔をするのに構わず、引き返してローの苦しそうな顔を覗き込んだ。
「ずいぶん苦しそうだね。いつからだい?」
「今朝・・・からだ」
 ローは苦々しくそうつぶやいた。
 誇り高き銃使いが、魔法使いに助けを求めるとは、屈辱的なことだろう。それでも自分の限界は把握しているらしく、頑固者のローが珍しく素直に答えるのを、アルファは可笑しく思った。
「街まであと少しだが・・・背負って行こうか?」
「おまえの力など借りん。・・・自分で歩ける!」
「そうは、見えないがねぇ」
 魔法使いの考えを読み取ったらしく、ほんの少し和らいだローの頑固さが、再び石のように戻ったようただったが、それも一瞬のことだった。意地悪く笑い、魔法使いが踵を返すと、焦った様子で荒い息をした。
「魔法使い!」
「なんだい?」
「・・・肩くらい、貸す気もないのか!・・・貴様は」
「銃使いが妥協とは珍しい。よほど、重い病気か?」
 苦虫を噛み潰したようなローの反応を思い描きながら、アルファが振り返ろうとした時だった。ドサリと音がして、魔法使いよりもよほど頑丈に見える銃使いの体は、糸の切れた人形のように石の上に倒れこんでしまった。
 荒い呼吸はそのまま、とても幸せな夢見とは言えない苦しげな表情、熱を出して火照った体は、見るからに衰弱している。
「まったく・・・世話の焼ける男だなぁ」
 気でも失わない限り、素直に助けを受け入れるような男ではないことは分かっている。だが、もっと早くに、彼の症状に気がつけばよかった、とアルファは思った。
 力なく倒れたローの首元には、真っ赤な発疹が浮かび上がっていたのだ。まさしく、赤花病の症状だ。

 アルファが、林の中に小さな明かりを見つけたのは、もうすっかり日が落ち月が頭上に昇りきった頃だった。ローの病状はさらに悪化していた。
 体は燃えるように熱く、まるで太陽を飲み込んだかのように、アルファの背で燃えるばかり。意識が朦朧としているらしく、うわ言で妹の名前を囁いては、苦しそうに呼吸を繰り返し、時々、世にも恐ろしいことにアルファの名を呼ぶのだった。
 図体ばかりでかい銃使いを背負って歩いてきたアルファは、疲れ果てた腕に最後の力を込めて、ローを背負い上げると、林の中の明かりを目指して歩き出した。
「死ぬなよ。若き銃使いよ」
 明かりが、頼りないあばら屋にともされたランプによるものだと分かったとき、魔法使いは心底ほっとした。一刻も早くローを休ませなければならない。本当に赤花病であるならば、何らかの薬を処方しなければ、彼の命に関わることだ。この小さな民家にその望みがあるかどうかは分からなかったが、とにかく自分ひとりではどうにもならないと、助けを求めることにした。
「誰かいるか?」
 古い木々の間に寄り添うように立てられた小屋は小さく頼りないものだった。すぐ脇に家畜用の柵があり、その側には菜園が作られている。まだまだ街への途上にあるこの辺鄙な林の中で、質素に暮らす住人が、良き人であることを、アルファは切に願う。
閉ざされた扉を叩き、魔法使いは大きな声を上げた。こんな真夜中では、さぞや迷惑だろうことは分かっていたが、そんなことを気にしている余裕などない。
「誰か・・・!!」
何度か叩いたところで、小屋の扉が前触れもなく開いた。中から、ぼんやりと光るランプを差し出し顔を出した老婆は、不思議そうに2人の旅人を見上げた。
「こんな夜分に、何用かね?」
「赤花病だ。薬は・・・あるだろうか?」
「それなら、入んな」
 老婆は、面倒くさそうに首を捻るとさっさと小屋の中に入ってしまった。アルファが遠慮がちに後に続くと、不機嫌そうな目で、病人を下ろすようにと目で示す。
 ベッドなのかただの物置なのか分からない狭い寝床に、ローの身体は大きすぎるようだった、空ろに抗議の声を上げる声を無視して、アルファは精一杯の気遣いと一緒に、ローの身体を横たえる。
「本当に、赤花病かえ?」
「前に、同じ症状を見たことがあるのだ。赤花草の毒にやられたのだろう」
「ふん。悪い季節に来たものだ」
 言いながら老婆は、水を少し汲んできてくれた。頭を持ち上げて、水を飲ませてやるとローはぼんやりと目を開けて、気分悪そうにアルファを見返す。
 水を飲んで少し落ち着いたのか、ローの呼吸が多少戻ってきた。そっと顔を覗き込んで、汗で張り付いた前髪をどけてやると、不機嫌そうに顔をふる。
「今朝方から、気分の悪くなる風が吹いていたので、嫌な予感がしておったのだ。赤花草の毒が飛ばされてきているのだろうさ」
 老婆の家の天井には、乾燥された様々な薬草がぶら下がっていた。その以外のものもいくつかあり、それらがすべて薬膳の類のものだと、アルファはすぐに分かった。腰の曲がった老婆は薬師なのだろう。てきぱきと慣れた手つきで、ローの様子を検分するとふんと鼻をならして、作業を続ける。
「この辺りには、赤花草が咲いているのかね?」
「あぁ。丘の向こうにね。普通の人間は恐ろしがって行かないだろうけどさ」
 不自由そうな身体でなにやら探し当てると、老婆は茶に煎じて薬を作ってくれた。薄黒色のぞっとする匂いの飲み物で、病でなければ近づけたくないような代物だ。
 弱った体でかすかに抵抗する素振りを見せたものの、結局のところ、強引に薬を飲ませようとするアルファに負けて、ローは何度かむせ返りながら、解熱薬を飲み干した。
「・・・不味い」
 渋い顔をしてローが言うのを聞いて、アルファは思わず声を上げて笑ってしまった。
「薬ごときで情けないなぁ。銃使いよ」
「・・・うるさい」
 今やヒューヒューという音のみとなった呼吸の合間に、ローはかすかにつぶやいた。
「憎まれ口を叩けるくらいなら、死にはしないよ。まったく頑丈な奴だな。おまえは」
 意識を朦朧とさせながらも、不機嫌そうにローは顔をしかめる。アルファは、自分のローブを脱ぐと丸めて、うなだれたままの銃使いの肩にかけてやった。
 少しすると、ローは誘われるがまま眠りに落ちていった。おそらく、薬の中に夢魔草の類の薬草が混ざっていたのだろう。先ほどまでの苦しげな息遣いは徐々に治まり、まだ苦しそうに唸ってはいたが、どうにか症状が落ち着くまでにそれほど時間はかからなかった。

 ようやく、アルファは安心してため息をついて、部屋の隅で悠々とパイプを吸い始めた老婆の方へと向かった。イシェ地方の上等なジャフ煙草の匂いは、魔法使いには馴染み深い。
「落ち着いたかね?」
「うむ。峠は越えたらしい」
 老婆は、ローに飲ませたのとは別のお茶の残りを温めなおして、アルファに手渡した。来い琥珀色の飲み物はすっかり煮えきっており、かなり渋くなっていたのだが、老婆の口にはそれくらいがちょうどいいらしい。
「それほど、簡単にいくかのぉ」
 彼女の意味深な言葉の意味をじっくりと考えてから、アルファは肩の力を落とし、老婆にひっきりなしに吹きかけられた煙を振り払った。
「すでに、体中に毒が回っておるのだ。簡単に解毒することはできない。ましてや赤花草の毒は根が深い。熱が下がったとしても・・・」
「光を失う」
 後の言葉を受け取ったアルファに、老婆は驚いたように眼を見開いたが、その表情もすぐに消えた。アルファの格好や杖を見て察したらしい。赤花草の群生地は限られているし、だいたいの場合、群生地の周辺に人が住むことは少ない。あちこち旅をして見聞の広い者でなければ、赤花病のことなど知らないはずなのだ。
「おまえ、魔法使いだね」
「如何にも、おばば殿。私は魔法使いアルファ。赤花草の呪いならば、多少は聞いたことがある」
 老婆はふんと鼻を鳴らすと、それまで以上に不機嫌そうに顔をしかめた。だいたい、どの場所でも魔法使いというのは忌み嫌われる者だが、特に南方のイシェ地方では、その嫌煙ぶりは群を抜いている。元々、魔法使いたちによって虐げられてきた一族の子孫が多く住んでいる地方なのだ。おそらく、目の前の老婆もまたそうやって教えられて育ったのだろう。
「それなら、わざわざ私のところに来る必要などなかっただろう。おまえたちのお得意の魔法とやらで、あいつも助けてやればよかったじゃぁないか」
「そうもいかないのだ。彼は、銃使いだから・・・私の魔法は通じない」
「はん!魔法使いと銃使いが一緒にいるのを見られるとはなぁ。世界がひっくりかえっても、無理な話だろうと思っていたよ」
 皮肉を込めて言う老婆の言葉に、アルファは肩をすくめる。
 おばばの言葉には納得がいく。魔法使いと銃使いはかつて世界を二分して戦い殺し合った種族だ。一度は魔法使いが滅ぼされ、しかし緩やかに銃使いも衰退した。その戦いは長く続き、多くの負の遺産を残して消え去ろうとしているが、世代が進んでもあの忌まわしき記憶は語り継がれて、魔法使いは嫌悪され、銃使いは恐れられている。どちらの種族も、ただこの地方に暮らしてきた者たちにとっては争いの種に他ならないし、平和だった世界を覆した罪人なのだろう。
 そういう扱いを受けることは、もうとっくに慣れてしまっていたが、ローとともに居ることに何かしらの非難を受けるのは、心外だと思った。
「時代は変わるものだよ。おばば殿」
「変わるものかね!!」
 火の種が飛ぶのも気にせず、老婆はパイプの先をアルファに突きつける。
「死んだ土地は戻りゃしないんだよ」
 息巻いて話したせいで疲れたのか、老婆はふぅと息を吐くと、左手の親指で額を引っかいた。古い厄除けの呪いだ。
「疫病神だと知っていたら、助けてやらなかったのに」
「それは、申し訳ないことをしたな・・・」
「今更もう遅いわ」
 火の消えてしまったパイプの灰が足元に落ちる。隙間風が酷く、凍えそうに寒かったのだが、老婆はさして気にも留めていない。アルファも、それにならって寒さに耐えた。せめてもの救いは、寝床だけは暖かい動物の毛に覆われ、アルファのローブの助けもあって、ローが凍えないということだ。
「どちらにしろ、熱が下がったって、このままでは、あの銃使いは視力を失うだろうさ。明日には、体中だけでなく瞳の色まで赤くなり、徐々に視力を失っていくだろうね。その苦しみといったら、本人でなけりゃ分からない」
「助ける方法はないのかね?」
「在るには在るがね・・・そうも簡単にはいかん。そもそも、この毒を蒔いたのはおまえたち魔法使いなのだから、助けようたって、そりゃまぁ自業自得だろうけどね」
 困ったというように、アルファは肩をすくめる。
「解毒の方法を教えていただけないだろうか?おばば殿」
「教えてやってもよいが。おまえが、変わりに死ぬか光を失うかもしれないよ」
「ふむ・・・それも困るのだが、銃使いから光を奪ってやるのは忍びない。それよりは、私の方がいいだろう」
「奇妙なことを言う魔法使いだの。銃使いを助けたいとは・・・」
 アルファは、我知らずふっと鼻で笑ってしまった。きっと、こんな話を聞いていたら、ローは顔を真っ赤にして怒り狂うだろう。もしかしたら、愛用の銃をアルファに向けて、躊躇なく撃つかもしれない。
 魔法使いが銃使いを救うなど、本当に可笑しな話だ。
「それでもね。助けてやりたいと思うのだよ」

 夜明けと同時に、アルファは老婆の小屋を出て行った。
 出て行く支度をしているアルファに気がついて、眼を覚ましていたローはぼんやりとした視線を向け、不安げに「どこへ行く?」と問いかけてきた。その眼は、充血を通り越して瞳孔まで赤く染まっているように見え、アルファの不安を煽る。
 魔法使いは「すぐに戻る」としか答えなかった。
 すぐ戻ってくるかどうかは、この際問題ではなかった。本当に戻ってくるかどうかが、ローには問題なのだ。
 それ以上、銃使いは何も言わず、再び静かに眼を閉じた。彼の視線が頼りなかったのは、熱のせいではなく、視界がぼやけていたからだろう。
「日の入りまでには戻ってきなよ。日が暮れると、西からの風が強くなるからね、赤花草の毒が飛ばされる時間だ」
 最後まで見送ってくれる老婆に、アルファは立ち止まり一礼頭を下げた。彼女は、魔法使いが戻るまでの間、ローの面倒を見ることと、もしも万が一、アルファが戻らなかったときには、哀れな銃使いの身の振り方を考えてくれるよう約束していた。
 本人が聞いたら、絶対に許さないことだろうが、しょうがない。眼を失った銃使いなど、何の役にも立たないのだから。
 アルファは、老婆から教えられた路を一人で黙々と進んだ。小屋があった林を抜けて平地に出ると、大昔誰かが築いた土地割りの柵に添って西へ歩く。夏の間は、西よりの風がほとんど吹かないから、近くに赤花草の群生地があると気づかなかったのだろう。赤花草の毒は人間にしか効果がないから、その他の植物は静かに生い茂り、動物達は突然の訪問者に驚きつつも、興味津々という様子でアルファに寄ってくる。毒の風が吹かなければ、平和で静かな清らかな土地なのだ。
 できることならば一息ついて、彼らと話したい衝動にかられたが、アルファは少しも歩を緩めることなく進んだ。昨日の疲れがまだ体のどこかに沈殿しているような気がしたが、爽やかな空気を吸えばいくらか楽になった。なによりも、一刻を争うローの容態を考えれば休む気にもなれなかったのだ。
 老婆は、魔法使いにこう言った。「赤花草の解毒には、赤花草の赤い花が必要だ」と。
「昔。私がまだ娘こだった頃。私の家族は大きな街に移住するために、この辺りを通りかかったのさ。それが運悪く冬の始めでね、うっかり赤花草の毒にやられたってわけだ」
 話しながら、老婆は渋いお茶と一緒に再びパイプを吸い始めていた。ジャフ煙草の吸いすぎで、老婆の歯は黄色く変色し、薬膳の混ざった奇妙な匂いを醸し出す。
「前にこの小屋に住んでいた薬師が助けてくれたけれど、家族は皆死んじまってさ。私も、死ぬところだった。ホントに死んどきゃよかったのに・・・薬師は、危険を顧みずに赤花草を取りに行って、助けてくれたのさ」
 深々と吐き出される長いため息が、小屋の中に満ちるのを見ながら、アルファはその薬師が偉大な一人の女性を助けたことを感謝することにした。
「薬師は、二度と光を見ることもなかったし、自分では動くこともできない身体になったけれど、身寄りのなかった私を育て、薬師の術を残してくれたってわけだ」
 赤花草の毒は赤花草の花でしか解毒することができない。しかし、花の毒が強すぎて、近づこうとすればそれだけ、毒によって身体は蝕まれるというわけだ。
「運良く、今発病していなくたって、近づいたら一たまりもないさ。自力で戻ってこられるかだって分かりゃしない。それでも行くっていうのかい?」
 アルファが静かに厳かにうなずくのを見て、老婆は最後の最後にため息をついて、群生地までの道順を教えてくれた。
 一帯が毒に犯されているせいで、ろくに住み着く人間もおらず、辺りは静かだった。道さえも遠い昔に忘れ去られ、植物に覆われて消えてしまっていたから、道筋はかつて同じ道を通った、老婆の師の記憶に残ったかすかな道しるべくらいしかなかった。大きな木や、昔あった大岩や、そんな類の印だ。それらを辿ってアルファは歩き続ける。
 急きたてられる思いに、アルファは自分でも不思議でたまらなかった。魔法使いが銃使いを助けるなど。銃使いが魔法使いと旅をするのと同じ、不可思議なことだ。
 かつての自分だったら、銃使いを救ったりしただろうか、とふと考える。彼らは故郷を奪い、アルファが知っていた世界の多くを破壊してしまったのだ。それははるか昔のことだけれど、その時には憎んでさえいたかもしれない。何もない焼け野原に立たされた孤独な魔法使いの思いなど、今となっては誰にも理解することはないだろう。
 それでもローを助けてやりたいと思った。彼が銃使いだからではない。それならば、ともに旅などしないし、助けてやる義理もない。本人は心底嫌がるだろうが、アルファはあの堅物な銃使いのことが気に入っているのだ。死なせるには惜しいし、銃使いの命とも等しい視力を失わせてやりたくなかった。
 両目の痛みに気がついてふと立ち止まる。手にした杖に身を預けて、両目を擦った。眼窩の奥に突き刺さるような感覚が、少しずつ頭の中に浸透して、頭痛を引き起こす。体中が熱いのは、なにも疲れているだけではないらしく、発熱は自覚することができた。じきに、自力では立っていられなくなるかもしれない。そんなことを考えながら、アルファはよろよろと歩き始める。
 夜明けと共に出発し、山を越えて平野を渡る頃には昼を過ぎていた。なだらかな坂が続き、老婆の告げた丘へたどり着く頃には、日が傾き始めていた。
 岩肌がむき出しになった斜面を頼りない足取りで登る。大した高さもないだろうに、這うようにして登るのは苦しく、大変な労力を費やす羽目になった。杖を頼りに、足元から滑り落ちるのを避けながら、汚れるのも構わず両手で地面をひっかいた。
 丘の上へ登りきった時。アルファは、茫然と目の前の光景を眺め、そして立ち尽くした。
 丘から見下ろせる平野一面に広がった、真っ白な花の海。強い西よりの風に吹かれて、終わりかけた花びらは、次々と風に浚われていく。それはまるで舞う雪のようであり、無数に彷徨う死者の魂のようでもあった。
「・・・戦場か」
 他に緑もない。木も草もない。動物もその場所には寄り付かないようだった。その場所は呪われているのだ。アルファには分かる。その身のうちに潜む、呪いによく似ていたからだ。術師を失い、制御不能になった呪いが集まり、土地を毒しているのだ。そのために、毒をもった花が咲く。あたり一面、かつて戦場となり、銃使いと魔法使いが殺しあった場所に白い花が咲いているのだ。
 我知らず、涙があふれ出ることに気がついて、アルファはローブの裾で両目を拭った。花の毒にやられたのだろう。視界がかすかに霞み、高い空の薄い青色と、眼下の白い花畑との境界がぼやけて見えた。
「呪いを浄化するための花なのだな」
 ふと、足元に咲いた花を見つめ、手にとって見る。細い頼りなさげな細い茎の上に、花が咲いている。花びらは小さく無数に集まり、玉のような形を作っていた。一見どこにでもありそうな、ごく普通の花に見える。だが、その中にひしめき合うように濃縮された呪いの毒は、劣勢に立たされた魔法使いたちがほどこした最後の抵抗だったはずだ。
 この地を汚すことになったとしても、せめて、魔法使いの土地と護ろうとした、異常な執着がなせる業か。いっそ醜ささえ感じ、アルファは深くため息をついた。
「かつて赤かった花は、呪いを吸って白くなり、やがて風と共に消えていく・・・か」
 あふれ出る涙のせいで、ぼやける視界の中。白いばかりの足元に、一本だけ赤い花を見つけた。赤花草。本来の花の色は、血のように赤かった。
 無数の花の中から一本だけを取り、アルファはその場に倒れた。ひどい眠気が足元から這い上がり、身体を包み込んでいくのが分かる。瞼が自然と下りてきて、涙眼のままぼんやりと夢の帳が目の前を覆っていく。
 ここで一眠りしてから帰ることにしよう。アルファはそう思った。
 花は手に入れた。この花があれば、ローの眼は助かるだろう。老婆の所に戻り、薬にしてもらえれば、彼もまた再び旅に出ることが出来るはずだ。
 だが、それも明日でいい。少し眠り、夜明けの前に往路を行くことに決め、アルファは目を閉じる。不思議と、いい夢を見れるような気がしたのは、古馴染みの呪いの野原のせいかもしれないし、魔法使いたちの最後の呪いの中に、自分の故郷があるような気がしたからかもしれない。

 ぼんやりと眼を開けたとき、ローの目の前には見ず知らずの老婆が、無慈悲な目を向けてじっと覗き込んでいた。その顔が、あまりに恐ろしかったため、思わず声を上げそうになったが、どうにか我慢することに成功して、ローはほっと撫で下ろす。
 それからやっと、どうして自分がどことも知れない臭いベッドに寝ているのか、ということに思い至った。
「あんた・・・誰だ?」
 ようやく言葉を見つけて問いかけると、老婆はふんと鼻を鳴らして、不機嫌そうに踵を返した。
「あ・・・おい!」
「礼儀を知らんガキだの」
 慌ててローは起き上がった。驚くほど身が軽いことに気づかず、思わぬ勢いをつけてしまったが、身体は自由に動いた。彼の最後の記憶は、夢うつつにアルファに抱きかかえられていたところで切れている。魔法使いが「死にはしない」と言うので、気が解けて眠ってしまったのだ。その後のことはおぼろげで、どこまでが夢でどこまでが現実なのか曖昧な情景が続いている。
 老婆は片手間に作っていた茶を差し出す。赤っぽい色のそれは、高級な紅茶のようにも見えた。豊潤な香りを吸い込むだけで、気分がすっと晴れ不思議と気分が安らいでいく。
「飲みな。それが最後の分だ。時機に全快するだろうさ」
 言われるがまま茶に口をつけると、香り同様に舌触りも滑らかに、すぅっと体の中に染み込んでいく。長いこと靄がかかっていた意識が、ふいに明瞭にくっきりと見え始め、ロー自身でさえ驚いた。まるで、今まで何も見えていなかったかのように、目の前には明るい光が溢れ、目を開けているだけで眩しいような気がした。
 思わず目を閉じ擦る様子を見咎め、老婆は再びじっと覗き込んでくる。
「見えないのかえ?」
「いや。その逆なんだ。こんなにもよく見えたことなんて、今までなかった」
 素直に答えると、老婆は満足したようにうなずいた。その口元は、かすかに笑みさえ浮かべていたかもしれない。
 どういう経緯でここに落ち着いているのか、さっぱり覚えていないローは、はたと、そこに居るはずの人物の姿がないことに気がついた。
「おばば。魔法使いはどこへ行った?一緒じゃなかったか?」
「礼よりも先に、魔法使いの心配かい?まったく・・・私が知らない間に、世界はひっくりかえっちまったようだね」
 老婆の物言いの真意を計りかねて、ローが首を傾げるそばから、彼女は手短に「外に居るよ」と答えた。
「呼んで来てやろうか?」
「いや・・・別に、そういうつもりじゃ」
「なら、もうしばらく寝てな。明日には好き勝手に出て行ってもいいよ。しばらく寝てたから、体が鈍ってるだろうけどね」
 そっけなくそれだけ言って、老婆はそそくさと小屋を出て行ってしまった。何か色々と知っておかなければならないことがあったはずなのに、後回しにされた心地悪さに顔をしかめながら、ローは憮然と扉を見つめていた。
 その扉の向こう側で、老婆は寒さに堪える腰をさすりながら、小屋の裏手にある大きな木のところへ歩いていった。その根本で転寝をしている魔法使いを見つけると、弱った足でがんと蹴り飛ばす。
「お連れが目を覚ましたよ。様子を見に行ってやらないのかい?」
「あぁ・・・嫌がるだろうから」
 小さく欠伸をしてそう答える魔法使いは、ローブを銃使いに貸したままだったから、驚くほど軽装で、見ているだけでこちらが寒くなる、と老婆は内心で毒づいた。
「ふん。つくづく可笑しな奴らだね」
「うむ。その通りだな」
 アルファははははと軽く笑い、立ち上がった。すっかり冷え込んだ林からの風が脇をすり抜けて、鋭い匂いの中に、赤花草の毒はもうすっかり少なくなっていた。
「ずいぶん、長い間、世話になってしまったなぁ。おばば殿。本当に感謝しているよ」
「ふん。今更遅いわ!」
 林の方へ歩き出したアルファの後ろで老婆は悪態をついた。
 病状が落ち着いたとはいえ、意識が戻らないローの世話を老婆にまかせて、この数日間、アルファはもっぱら辺りの林を歩き回ったり、少々遠出して、静かな平野を散策したりしていた。それも、今日が最後かと思うと名残惜しいような気がするのだが、一所に留まり続けるのはやはり性に合わないような気もする。
「一つ聞いていいかい?」
 最後に少しだけ歩こうかと思っていたアルファの背に声がかかる。振り返ってみれば、林の中へ踏み入ろうともせず、立ち尽くしたまま老婆はじっと魔法使いを見詰めていた。
「3日間もあそこから戻ってこなかったね?あそこには、何があったんだい?」
 あそことは、白い赤花草が咲き乱れる丘のその向こう側のことだ。そこだけが、現実からぽっかりと抜け落ちた、時の彼方のような場所だった。
「何もありはしないよ。ただ、花が咲き乱れていただけだ」
「じゃぁ、なぜすぐに戻ってこなかった?何をしていたんだ?」
「少しだけ、眠っていたんだよ」
 もうほとんど、林の中に歩き出しながら、アルファは、ふんわりと笑って、老婆に言う。
「なぜだが、あそこはとても落ち着いたのだ。きっと、私とあの毒の花は似た者同士なのだろう」
 鬱蒼とした木々の陰の中に消えていくアルファの後姿を見送りながら、老婆はその言葉の意味を考えてみたけれど、結局のところ理解することができず、追い払うように手を払いながら、小屋へと戻っていった。