終末観測所

「本日より配属になりました。カロン・グリーンリヴァーです」
 扉に向かって声をかけてみたが、返事らしいものはなかった。
「すみません!!だれか、いませんか?」
 もう一度声をかけながら、僕は建物の階段を上がった。自分の荷物はそれほど多くも重くもなかったけれど、冷たい外気を遮る手袋の中で、僕の手はそろそろ限界を訴えていた。この場所は、僕が生きてきた中でも、寒すぎる場所だった。
 木も風も大地も当然のことながら水も、果てしなく凍てつくこの土地において、人が暮らすというのはまさに自殺行為だった。ここは、観光向けのキャンプ場ではないし、世捨て人が余生を過ごすような場所でもない。世界の果て。みんながそう言った。僕の赴任を喜んでくれる人も非難する人もいなかったけれど、皆が一様に、世界の果てで死ねるのは幸せだ、と言った。
 ごく普通の建物で、この極寒を行きぬけるはずがない。日中でも摂氏−20℃以上上がらないし、夜中にもなれば、−40℃よりも低い。もはや、ここは普通の生き物が暮らすような場所ではないのだ。
 人間は、普通ではないから生きていける。
 厚さ30pのコンクリートの壁と、何重にも折り重なった暖房壁。プラスチックの床が乾いた音を立てて、僕は防寒ブーツのスパイクで滑りそうになった。
「すみません」
 もう一度声をかけると、かすかな気配が建物の中で動いたような気がした。窓さえない建物だったが、たしかに誰かが中で生活しているらしい。
 僕は少し安心した。
 たしかに、この世界の果て観測所からは、定期的な観測データが本部の方へ送信されてはいるが、それ以外に観測者がここに住んでいるという確固たる証拠はもうずいぶん前に失われてしまっていた。観測機自体が作動してさえいれば、データは送信され続けるし、観測自体に人ではほとんど必要ない。もしも、人が住んでいたとしても、観測所の周囲50キロ以内に暮らしている地元民は居ないから、気配を確認することもできない。誰も、この観測所に以前赴任しているはずの、前任者が今も生きているという根拠はなかったのだ。
 そんなところへ赴任してきた僕は、間違いなく変わり者だ。僕が異動願いを出したのが、2ヶ月前。実質的な赴任が決まったのは1ヶ月前。今日まで赴任が延期になっていた理由は、観測所周辺の嵐が収まらなかったからだ。
 でも間に合ってよかった。僕は分厚い扉が、ようやく開く気配を見せ、重苦しい鍵が開けられるのを待ちながら、心底そう思った。

 明らかに難儀して開けられた扉から顔を覗かせたのは、見るからにみすぼらしい格好の老人だった。
「はて、こんなところに客人かね?」
「本日より配属になりました・・・」
「あぁ、いい。いい。それより、早く中に入りなさい。凍えてしまいそうだ」
 老人は、少しだけ扉を大きく開けて、僕を中に入れてくれた。そして、有無を言わさぬ重さで扉をばたんと閉めると、再び頑丈な鍵をかけた。
「はぁ、まったく・・・外を寒いな。こんな中をよくやってきたものだ」
「会社のヘリで送ってもらいましたから」
「会社・・・あぁ。悪名高きコンラット社か」
「あなたも、社員でしょ?」
「うん。私がいるから、悪名高いんだよ」
 老人はははと笑った。
 くたびれたセーターを着ていたが、老人の足元は裸足だった。その足元には、老人の腰の腰くらいはあるのではないかと思うような狼犬が、油断なく突然の訪問者を睨みつけている。
 僕はぎくりとして、犬を見下ろした。実は、あまり犬が好きではないのだ。
「あぁ、心配しなくてもいい。この子は大人しいから」と老人は言った。
 建物の中は外とは比べ物にならないほど温かい。快適といってもいいくらいだろう。だから、逆に僕の完全防備は熱すぎるくらいだ。
「さて、で、君は誰かな?」
「あ・・・はい。本日より配属になりました・・・」
 僕は、小柄な鞄の外ポケットから、くしゃくしゃになった辞令書をひっぱりだして、老人に渡した。
「カロン・グリーンリヴァーです」
「はて、冥界の船守カロンが守っているのは、緑色の川ではなかったと思うが・・・」
「川岸で拾われたので」
 そう答えると、老人はあぁと納得した。
「今更になって、増員とは・・・会社も人員の無駄遣いだな」
 受け取った書類に一通り眼を通すと、老人は古びたズボンのポケットに書類を突っ込んだ。こんな辺境の観測所では、辞令に基づく異動など正直無意味なのだろう。そこに人がいるか居ないかさえ、どうでもいいような場所なのだから。
「まぁ、短い間だろうが、ゆっくりくつろいでいきなさい」
 それだけ言うと、老人は建物の中に引き返して行った。僕は一人残され、どうしようかしばらく迷った後、身体中についた雪を払い、一番外に来ている外套を脱いでから、老人の後を追いかけた。
 陰鬱な玄関と廊下を抜けると、ふいに開けたリビングに出た。ずいぶん広いリビングで、老人が一人で暮らすにはもてあますだろうと僕は思った。本棚が幾つもあり、読み古された本が占領している。テーブルとソファもインテリアにこだわった物が置かれ、暖炉にはちらちらと火が燃えている。
 世界の果てというわりには、ずいぶんと心地よさそうだ。
「君の部屋は二階を使うといい。寒くないから安心して眠れると思うよ。しばらく掃除はしていないが・・・残りを過ごすには、不自由しないだろう」
「ありがとうございます」
 僕は、荷物を持って部屋の角にある階段の方へと行きかけた。途中、例の大型犬が鋭い目つきで睨みつけているのを、緊張しながらすり抜ける。
「ウルスラは噛み付いたりせんよ。私以外の人間を見るのが初めてだから、緊張しているんだろう」
「はぁ・・・」
「荷物を置いたら、降りてくるといい。温かいコーヒーをご馳走しよう。ゆっくりと君のことを話してくれないかい?」
「えぇ。でも、その前に・・・」
 僕は、ウルスラという名前の犬と睨めっこするのをやめて、年老いた老人を見た。人好きのするような穏やかな雰囲気のごくありふれた老人。黒い眼鏡の奥に優しい笑顔を持ち、犬を可愛がり、客人を持て成す。
 世界中の人間が、彼を恨んでいるけれど、僕はどうだろうか。ふとそんなことを思って、ため息をついた。
「終末観測装置を見せてもらえませんか?」
 僕の言葉に老人は少し驚いたようだったが、快い笑顔でうなづいた。

 キリル・ガーシュイン博士が、終末観測装置を発明したのは、今から40年ほど前のことだ。
 世界の終末までのカウントダウンを刻み続けるこの装置の真意を、最初は誰も信じなかった。一部の終末論者には大いに受け入れられただろうが、そのほかの大部分は、自分の人生の終わりなど知りたいとは思わないだろう。それでも、徐々に世界の終末までの時間は刻一刻と減っていく。
 最初は誰も信じなかった。だが、やがて少しずつ不安が広がっていき、もしかしたら、そのカウントダウンが正しいのではないかと思う人々が増えてきた。根拠はない。だがもしかしたら、その日世界は終わるかもしれない。一体どんな方法で?世界戦争でも起こるのか、彗星でも落ちてくるのか、すべての生き物がそうであるように世界の寿命が静かに消えて終わるのか。皆が考え始めた。
 そうなると、もう一種のヒステリーのようなもので、世界中の一大ムーブメントになって、世界終末論は広がっていった。世界中の大パニック。自暴自棄なんて可愛いもので、集団自殺が起こり、人殺しなど日常茶飯事。犯罪率は急上昇し、出生率は極端に下がった。未来への希望は、唐突に人類の目の前から消えたのだ。残されたのは、残酷にも正確に刻まれていくカウントダウンのみ。残された時間はどんどんと浪費され、誰にも止めることなどできなかった。
 やがて一時のヒステリー現象が収まると、あとはただ無気力な人々だけが残った。かろうじて機能を保っていたいくつかの政府は、無気力にただ生きることのみを選んだ人々のために、極力平静なパニック前の生活を保とうと勤めた。それは、一種の回顧主義の成れの果てだったのだろう。ヒステリー現象の後にやってきたのは、急激な後退だった。出来うる限り普通の生活を、終末を知らされる前の、幸せだった頃の人生を演じ、人々は新しい生活を始めた。たとえ、世界の終末が分かっていたとしても、生き物は食べて呼吸するし、睡眠をとり、子供を生んで育てる。人々はそれなりに、終末と折り合いをつけて生き始めたのだった。
 それが約20年前。その間も、カウントダウンは続いた。その残り時間は、町中の電光掲示板に秒読みされ、人々は常に終末観測を日常的に見るようになっていった。そうして、日常のすぐそばに終末を意識することによって、逆に遠ざけようとしたのだった。不思議なことに、その効果は絶大だった。より正確な時間を知るために、終末観測所が各地に作られ、終末予測及び、終末の日に向けての情報流通や報道、果ては終末までの過ごし方のプランニングまで、コンラット社が取り仕切ることとなった。
 そうして、世界は元通りの生活に戻った。少なくとも表面上は、人間が安心して生きていけるだけの演出は整えられたのだ。

世界の終末まで、残り3:12:38:15。

「ここにある観測装置は、現役の装置の中では、一番初期のタイプなのだよ。最初の観測装置と同じだ」
「最初の観測装置は、その後の研究のため解体されたって聞きましたけど」
 老人と僕は、薄暗い階段を下りていく途中だった。裸電球が一つ、天井からぶら下がっていて、危うい足元を照らし出している以外は、頼りはなにもない。
「うん。試作品と実用装置だろう。解体されたのは試作品の方で、ここに残っているのは実用の方だよ」
「へぇ」
「技術革新で、装置の精密度は上がっているが・・・やはり、正確な観測をするには、初期タイプが一番いい」
「それが、どうしてこんな辺境の観測所にあるんです?」
 老人はふっと鼻で笑った。小馬鹿にされたような気がしたけれど、そういうタイプの人間に見えないから、たぶん彼なりの感情表現の一種なのだろうと思う。
「人や生き物が少ない方が、装置の雑音が少なくて済むんだ。その方が、データは正確に取れる」
「何を観測しているんです?」
「世界の終末までの時間だよ」
 老人は、またふっと鼻で笑った。
 地下室はだいぶ深いようだったが、暗い壁に伝わる鈍い振動はずっと聞こえていた。ぐおんぐおんをまるで壊れかけた洗濯機が最後の洗濯のために命を削っているような音だと思った。
 ぐおんぐおん。世界の終末の音は、ごく普通の機械的な音だった。
「観測員の仕事はそれほど面白くもなくてね。一日2回。この地下室まで降りてきて、装置が動いているか確認するだけだ。あとは、会社が置いていった連絡装置が勝手にデータを転送してくれる」
「はい」
「その他の時間は、本を読んだりゲームをしたり。あぁ・・・テレビは見れないんだ。何年か前にアンテナが壊れてしまってね。君が修理してくれると嬉しいんだが・・・」
「えぇ。いいですよ」
 以前、自分の家のアンテナを直したことがあったけれど、この観測所の屋根は、想像を絶する寒さだろう。
「頼もしい助手が来てくれてよかった」
 老人はそう言って笑った。
 ここまでの階段とは違い、地下室は明るかった。老人は、この観測所で生きていくためのすべてがこの地下室にあるのだと説明した。
 雪を溶かして貯めておく貯水槽。食料用の自家菜園。たまに獲ってくるトナカイの肉の貯蔵庫。緊急自体用の缶詰が少し。そして、終末観測装置が中央に鎮座していた。
 それは、思っていたよりもずっと大きかった。地下二階分はあるだろう天井にまで届きそうだ。いくつもの歯車とパイプと金属の橋とネジと鉄板が、なにか得体の知れない磁力のようなものに引き付けられて、無理矢理くっついたような不恰好な巨大な装置は、相変わらず、死にそうな音を立てて、必死に呼吸しているようだった。どこか具合が悪いのだろうかと思ったけれど、元々機械に詳しくない僕にはさっぱり分からなかった。ましてや、世界の終末を観測するために最も重要な装置など、別次元の問題だ。
「この装置について、何か聞いてきたかね?」
「いいえ・・・特には」
「まぁ、知る必要のないこともあるからな。こちらへ来るといい」
 言われるがままついていくと、装置の反対側に案内された。そこには、この装置のうち唯一外への出力口が、唐突に突き出していた。そこから吐き出される、幅2センチの紙には、規則正しく数字が印字されていた。紙は吐き出されるがまま床に垂れ下がり、無秩序に床を這い回っている。
「カウントは、ここに吐き出されてくる。もちろんデータでも記録されているんだが・・・まぁ、古い物が好きな開発者だったのだな。こういう原始的な紙も、今の時代いいものだと思わないかね?」
「はぁ・・・」
 僕の反応など老人には興味もなかったようで、流れるように吐き出される紙を手に取った。
「ふむ。もうすぐだな」
「えぇ。そうですね」
 この世の終わりまでもうすぐだ、なんて思いたいやつなんていないだろうと僕は思ったけれど、口には出さなかった。きっと無意味だからだ。残り3日と少しの人生について、もうすぐだ、遣り残したことはなかっただろうか、などと考えることの方が馬鹿げている。
「では、何か質問はあるかね?カロン君。質問にはいつでも答えられるが・・・今聞きたいことは?」
「えぇ」
 僕は、巨大な装置を見上げ、これが世界の預言者かと思った。こんなに不細工で、頼りなさそうな装置によって、世界は終末へと向かっているのか。
「本当に、世界は終わるんですか?」

 世界の終末まで、残り2:10:17:23。

 翌日、僕は一日のほとんどを装置を眺めて過ごした。なんども装置の周りを見て周り、その細部まで観察し、装置の仕組みがどうなっているのか、僕なりに理解しようとしたのだ。
 しかしその時間のほとんどは無駄だった。僕には機械のことなどさっぱりわからなかった。例の老人に聞いてみれば何か分かるかもしれないが、そうする気にもなれず、観察のあとは、一人で地下室に留まったまま絵を描いた。僕は、絵を描くのが好きなのだ。
 もしもこの世界に画家という仕事が残っていたら、僕は画家になりたかった。大好きな絵を描いて稼げるなんて夢のようだ。まぁ、夢でしかないのだけれど。
 芸術というものが衰退するのに時間はかからなかったのだろう。過去の名画や芸術はそれなりの恩寵を受け保護されることに全力を注がれたけれど、新しい芸術など受け入れらなかった。最後には芸術・文化といわれる物々はすっかり衰退し、過去のものしか残らなかった。
「なにか新しい発見はあったかね?」
 ふいに声が聞こえ振り返り見れば、大型犬をつれた老人が地下室の入り口に立っていた。どうしても、ウルスラという名前の犬の存在に慣れない僕は、一瞬びくつきつつ、老人が近づいてくるのを見守った。
「いいえ。特には・・・」
「私も、30年ほど、この装置を見ているが・・・一度も変化などないからね。あと2日間も、特に変化はないだろう」
 老人もまた、僕の隣で装置を見上げる。老人は枯れ木のように細く、とても小柄で、青い顔をして見えた。
「お体が悪いんですか?」と思わず問いかけてしまった僕に、老人は。
「まぁ、肝臓がね」と答えた。
「ここには医者もいないが・・・自分の身体のことだから分かっているんだ。私もそれほど長くはないらしい」
「そう・・・なんですか」
 僕はどう答えたらいいのか分からなくて、俯きながら曖昧に言った。だって、あと2日と少しで世界の終末がやってくるのならば、末期の病気なんてどうでもいいような気もしたのだ。でも、病気は病気でこの老人は苦しまなければならないのかもしれない。
「さぁ、もう上へ上がっておいで。君の話を聞かせてくれないかな?ウルスラ以外の人と話すのは、もうずいぶん久しぶりでね。ぜひ、君の事を話して欲しいんだ」
 そんな僕の様子を察したのか、老人は優しい手を差し出して、僕を上のリビングへと導いた。地下の閉鎖感は冷え切ったものではなかったけれど、気を遠くさせる。
 リビングの方がずっと暖かく快適な空気に包まれていた。この観測所には明り取り以外に窓がないから、開放感とまではいえないけれど、暗くじめじめした場所にいるよりはいくらか気が晴れる。
 窓のない分厚い壁には、一面本棚が並び、空いているかすかなスペースには見たこともない絵が飾ってあった。昨日は気がつかなかったが、それは風景画だったり、人物がだったり、大きいものもあれば、葉書程度の小さなものもあった。
「絵が好きなんですか?」
 勧められるがままソファに座る僕の足元に、ウルスラが寄ってくる。主人の足元を離れるのは初めてのことだった。彼女は、確かめるように僕の顔を見てから、緊張している僕のすぐそばに座ると、腕に触れられる場所に身を伏せた。
「あぁ・・・あれはね、すべて妻が描いたものだよ」
 リビングに併設する小さなキッチンでコーヒーを入れながら老人が答える。
「私の妻は画家でね。今はもう、あまりたくさん残っていないのだが・・・」
「綺麗な絵ですね」
 率直な意見だ。
「君も絵を描くのだろう?」
「え・・・?」
 老人は、僕が持っていたスケッチブックを示した。
「いいのが描けたら見せてくれないか?」
「いえ、僕は・・・趣味の範囲ですから・・・」
「そうか。残念だな」
 コーヒーが目の前のテーブルの置かれ、反対側のソファに老人が座る。こんな辺鄙な場所にもコーヒーがあるという事実がとても奇妙に思えた。もうすぐ、世界の終末が訪れようとしているのに、僕らは黙ってコーヒーを飲んでいる。
 世界の終末というものはこんなに静かなものなのだろうか。
「妻もね、あまり上手だとは言わなかったけれど・・・。私は家を空けることが多かったから、一人でこっそり描いていたのだよ。何点かは画商が買い取ってくれてね、妻は大喜びだった」
「まだ、装置が出来る前だったんですか?」
「うん。まだね、希望が生きていた頃の話さ」
 老人は、ずずずと音をたててコーヒーを飲んだ。
「君は・・・。喪失期の生まれだね?」
「えぇ・・・まぁ。そういうことになりますね。今年で、22歳ですから」
 喪失期というのは、ひたすらパニックに陥っていた混乱期の後にやってきた無気力状態の時期を示している。つまり、この20年ほどの間だ。
「君たちの世代が一番つらいだろう。人生、これからという時に・・・」
「いいえ。そうでもないですよ。僕らは生まれた時から希望というものを知らずに育ちましたから」
 僕が砂糖を入れながら言うと、ウルスラがぴくりと動いて頭を上げた。探るように鼻先を動かし、じっと僕を見つめていたけれど、そのうち飽きたように、再び伏せの姿勢になる。
「この名前の通り、僕は川の下で拾われました。両親は分かりません。たぶん、死んでると思います。僕は死体の山の中を這い回っていたらしいですから」
「なんと、悲惨な話だ」
「いいえ。僕のような子供は他にもたくさんいましたよ。僕が育った施設にいた子は、たいだいが僕と同じで、親に捨てられたか、親が死んだかで彷徨っていた子供ばかりでしたから。むしろ、本当の親に育てられる子供の方が少なかったんじゃないかな。
 喪失期の親たちは、子供に対する希望も失っていたんですよね。それなのに、子供は生まれるんだ。動物の本能というものは本当に残酷です」
「本当にすまないことをしたね・・・」
「別にあなたが悪いわけじゃないんですから・・・」
 僕はできるだけ相手を傷つけないように笑って見せたのだが、老人はふぅと深いため息をついて、物思いに囚われた眼を僕に向けていた。その眼は、今はもういない、僕の育ての両親に似ている様な気がした。
 誰かに責められることを願っているような眼。僕はずっとそういう眼に見守られながら育ったのだ。
「運良く、僕はあなたのような優しい老夫婦に引き取られました。彼らは本当の子供のように僕を育て、色々と教えてくれました。自分が生まれた時代がいかに残酷であるかということ。その世の中でどうやって生きていけばいいか、どうやって折り合いをつけていけばいいか。何もかも、彼らは僕に教えてくれました。
 僕が、コンラット社に就職すると言った時、両親とも反対しましたけど・・・結局は認めてくれました。僕が選んだ道ならば、と言ってね。  その後、2人ともとても静かに死にましたけど。政府が配布している安息薬で」
 僕はコーヒーを飲み干した。最後の方に残っていた砂糖がひどく甘くて、黒いおりもののようなドロリとした残滓がカップの内側に残る。
「僕の話はそれくらいです。あまり面白くないでしょう?ごく平凡で・・・どちらかというと恵まれた生活でしたし、両親のことも愛しています。最後までそれをうまく伝えられなかったけれど・・・。それでも、僕にとっては幸せな人生でした」
「幸せか・・・」
 同じくコーヒーを飲み干したらしい老人は、感慨深く一つの単語をつぶやき、ゆっくりと舌の上に乗せて、ふぅとため息と一緒に吐き出した。
「すまない。本当に・・・すまないことをしたね・・・」
 老人はのろのろと立ち上がり、キッチンの方へと歩いていった。
 後を追いかけようとした僕を止めるようにウルスラもまた立ち上がった。僕は一瞬動けずに、しばしの間彼女とにらみ合うはめになったが、そのまま座った。ウルスラは首を突き出し、僕にすりつきながら主人を気遣っていたのだと思う。たぶん。

 世界の終わりまで、残り 1:18:19:32。

 3日目、僕が部屋から出てきても、いつもなら上機嫌で朝食を作っている老人が、ぐったりと力なくソファに腰掛けたまま、うとうとと転寝していた。
 眠れずに徹夜したのだろうか。ソファの上にはいくつもの本と、アルバムが散らかっていた。そばで寝ていたウルスラが、僕が近づいていくのに気がついて頭を上げたけれど、主人の眠りを妨げるつもりはないらしく、すぐに再び寝入ってしまった。
 無造作に置かれた古いアルバムを拾い上げ、ぱらぱらとページをめくってみる。どれも古い写真ばかりで、そのほとんどが若い女性のものだった。旅先での一コマ、家庭での笑顔。庭先ではしゃぐ姿。そして安らかな寝顔。女性は明るく幸せそうだ。何ページもあるアルバムの一番最後のページにある、彼女が別の人物と写っている唯一の写真から、彼女の名前が分かった。紳士的ではあるが無愛想な男性とかしこまった様子で写った写真のしたには“エリシャと”と走り書きしてあった。
「ん・・・あぁ。寝入ってしまったのか」
 ぼんやりたした声でつぶやき、老人は目を覚ました。
「すっかり、寝坊してしまった」
 老人は立ち上がろうとしたけれど、寝起きの老体が言うことを聞かないらしく、すぐにソファに座り込んでしまった。慌てて助けようとしたが、彼は笑いながら僕を制す。そして小さく「もうダメだな」と呟いた。
「アルバムを見ていたのか?」
「え・・・えぇ」
 僕の手の中のアルバムに気がつき、老人は懐かしそうにそれを手に取った。大切そうに表紙をなぞり、ゆっくりとページをめくる。
「これは妻の写真でね。私は・・・写真など嫌いだといったのだが、知り合いの写真家がどうしてもというので、妻が撮ってもらうことになったのだよ。彼女は美人でね。本当に写真写りがいい」
「えぇ。綺麗な人ですね」
 満足そうにうなずき、老人は愛おしげに女性の写真に指を走らせていく。
「妻が死んだ時、もう何もかも燃やしてしまおうかと思ったのだが、どうしてもこのアルバムだけは手放せなかった。今となっては、これだけが妻の姿を残す唯一のものになってしまった」
 最後のページを見る前にぱたんとページを閉じ、老人は足腰を痛めながら今度は一度で立ち上がった。
「さて、食事にしようか」
「僕が作りますよ」
「君が?料理が出来るのかね?」
 至極驚いたという様子に、僕はいたずらっぽく笑って「少しはね」と答える。
「いやいや。君には他にやってもらいたいことがある」
「何です?」
 後ろをついてきたウルスラの首元をなでてやると、彼女は嬉しそうに擦り寄ってきた。犬嫌いだった自分が嘘のように、ウルスラのことが好きになっていた。
「今日は久しぶりに天気がよさそうだ。屋根に上って、テレビのアンテナを直してくれないか?」
「こんなところで、テレビが見えるんですか?」
「当然だ。この世の中、不可能など見当たらんだろう」
 いつも通りのトーストと卵を焼きながら、老人が大真面目に言うので、僕は一つ大きなため息をついた。
 天気がよくても悪くても、外は凍えるほど寒いに決まっているのだ。

「どうです?映りましたか?」
「いや。もう少し右だね」
 階段の下から聞こえる声にあわせて、大きなアンテナの方向を変えていく。やはり世界の果てでテレビを見るためには、特大のパラボラアンテナが必要で、2ほど前の大嵐によって土台が捻じ曲がってしまって以来、老人の力ではどうにも直せなかったらしい。
「あぁ!もう少し・・・もう少し上を向けてくれるかね。カロン君」
 僕は、両腕の力を振り絞ってアンテナを青い空へと向ける。ここへ来たときはまったく気づいていなかったのだが、この世界の果ての観測所の上空を覆う空は、驚くほど青くて、まるで絵の具で塗り散らかしたかのように見えた。ところどころに塗り残しの雲がちらつき、老人が言ったとおり穏やかな日だった。
 とはいえ、寒さは半端なものではないので、屋上に居る僕はもちろん、階段の下でテレビを見ながら指示を出している老人もまた、完全防寒での作業だ。
「どうですか?」
「うん。まぁまぁ、いい感じだ」
 嵐で吹き飛ばされないように、アンテナの位置をボルトでしっかりと固定してから、僕は階段を下りた。すっかり僕に懐いてしまったウルスラが楽しそうにその後に続く。元々狼に血が濃いウルスラは、この極寒の地でも平気らしい。
 階段を下りて、屋上へと続くぽっかりとした入り口を閉じればようやくいつもの温かさが戻ってくる。指先を守っていた手袋や分厚いコートを脱ぎして、何重にも着込んでいた服を脱ぎ散らかして、ようやく落ち着いた。
 老人は壁際の小さなスペースにテレビを押し込むように設置し、自分は向かい側のソファに陣取っている。時代遅れの馬鹿みたいに大きなテレビだった。
「あぁ。これで世界と繋がったような気がするよ」
 こんな世界の果てで、犬と暮らしている老人が、世界と繋がるという発想は、なんとなく、笑うに笑えないブラックジョークのように思えたが、僕は黙っていた
 テレビにはニュースが映し出されていた。それは英語だったりロシア語だったり、フランス語、ドイツ語、日本語、中国語。様々な国語、様々な人種、様々な場所。だが、伝えていることは同じだった。
 世界の終末を伝えるカウントダウンの表示は、刻々と刻まれ続けている。
 以前テレビを見ていたときには、ニュース以外の番組も放送されていると思ったけれど、もはやここまできたら、別番組を作るだけの気力などないらしかった。何度も何度も同じ言葉が繰り返され、各地の今の様子が伝えられていく。静かな場所もあれば、騒がしい場所もある。暴動が起こる場所もあれば、祈りをささげる場所もある。
「カロン君には信仰があるかね?」
 ソファの横に突っ立ったままテレビを見ていた僕に、老人はふいに声をかけてくる。
「どうしてです?」
「私はもうとっくに信仰というものを捨ててしまったので、祈りが必要なら、君に合わせようかと思って」
 老人が言っているのは、テレビチャンネルのことらしい。目下、この目の前に終末に際して、多くの人間が己の宗教に基づく祈りを一心不乱に捧げている情景を、テレビは映し出している。どの信仰にも等しく記される最後の審判が今まさに下されようとしている今、熱心な宗教人にとっては祈ることこそが心の平安を保たせる唯一の助けなのだろう。
「残念だけど、僕にも信仰はありませんよ。仮にあったとしても、祈りを捧げるほど敬虔な信者ではないと思う」
「そうか」
 老人は短く答えて、ふたたびテレビを見始めた。
 ニュースばかりのチャンネルを次々と変えては、ぼんやりと眺め、聞き取れない異国の言葉が流れて、まったく知らない場所の映像が流されていく。今この瞬間。どれも同じ瞬間であるはずなのに、なんと騒々しいことだろう。テレビの中の情景が、まるでまったく別の世界で起こっている悲劇であるかのように、実感が湧かなかった。
「どうして、信仰を捨てたんです?」
 ふと思い立って、テレビを見たまま僕は問いかけた。老人はかすかに僕の方を見たような気がしたが、見て見ぬフリをする。
「妻が死んだときに、私は世界を手に入れてしまったのだよ。だから、信仰に値するものを見失ってしまった。それだけだよ」
 老人は静かに答えた。
 テレビを見ていても、どれも同じニュースばかりで真新しいものはなく、他に知りたいことも見出せなかったから、僕はソファを立った。さきほどまで極寒の中にいたから、温かいリビングでは逆に熱すぎてどうにも落ち着かない。
 観測装置の様子を見に行くために、地下室へと降りていく僕の姿を老人はぼんやりと眺めていたけれど、何も言わなかった。

 世界の終わりまで、残り 0:18:37:06。

 4日目。僕は初めて、ウルスラの声を聞いた。
 観測装置の吐き出すカウントが、ついに24時間を切ったその日の午後、僕は相変わらずテレビを見ているか、本を読んでいるかしている老人の姿を探して、うろうろとあちこちを歩き回っていた。
 さほど大きくもない観測所である、ここへ来てまだ4日も経っていないのだが、だいたいの場所は分かっているつもりだったのだが、老人の姿はどこにもない。どこへ行ってしまったのかと、心配しはじめたころに、ウルスラが驚くような大声で鳴いたのだ。
 慌ててその場所を探し当てた僕は、思わぬところに扉を見つけて驚いた。リビングの片隅、本棚の影に隠れた細い通路の奥に、老人の部屋はあった。
 狂ったように扉を爪で引っかくウルスラを下がらせて、僕は扉を開けた。
「博士?」
 部屋は薄暗く、とても狭かったが、コンクリート作りの壁には無数の表彰状が飾られ、何枚もの写真が貼り付けられていた。皆、優れた研究者に送られるものばかりで、写真にはどれにも無愛想な男が写っている。
 せいぜいベッドくらいしか入らない部屋の、古く冷たそうなベッドの中に、老人はうずくまっていた。
「ガーシュイン博士」
 名前を呼ばれたことに気がついたのか、老人はうっすらと目を開けるとのろのろと起き上がろうとする。慌てて動きを制したとき、老人の体が驚くほど細く冷たいことに気がついた。
「懐かしい名前だ」
「あなたの名前でしょ?」
「あぁ。たしか、そうだったと思う」
 ぼんやりとした目で老人は僕を見上げる。まるで幻を見ているかのように、焦点があっていない。本当に、僕を見ているのだろうか。 「最初から、私のことを知っていたのかね?」
「えぇ。そうです。あなたが、終末観測機を創った人だってことは、知っていました」
「私を殺しにきたのかい?」
「・・・どうしてです?」
 老人はため息をついた。
「私が君らの世界に終わりを告げてしまった。私を憎んでいる者は多いだろう。だから、身を隠したんだ。こんな世界の果てまで、私の命を狙って来る者はいないと思ってね。しかし、私を一番憎んでいたのは、どうやら私自身だったらしい」
 カロンはベッド脇に座り、キリル・ガーシュインの真っ白になってしまった髪を撫でる。いくつもの写真に写る紳士的な姿とは裏腹に、痩せこけ弱りきったその姿は、過去の栄光に彩られたこの部屋の中では滑稽だった。哀れでさえある。
 僕は、老人の皮と骨だけになった手を強く握り締めた。
「あの装置を作った時、最初に私が殺したのは、妻だったのだ」
「殺したわけじゃないでしょ・・・?」
「いいや。私が殺したも同然だ。世界同様にね。自分の終わりを知ってしまった者が、最後にはどうなるのか想像してみればいい。テレビで見るとおり、ある者は狂気に駆られ、ある者は祈り、ある者は達観する。そして、妻が選んだ道は自死することだった」
 老人は苦しそうに息を飲み込み、内側から湧き上がる痛みに耐えて顔を歪めた。
「あの時から、私の世界は終わった。私に残されたことは、ただ、自分が創った装置が刻む終末へのカウントダウンが本当に正しいのかどうかを、この目で見届けることだけだったのだ」
「そのために、ここでひっそり生きていたということですか?」
 僕の言葉に、老人は空ろな眼のまま小さくうなずいたようだった。僕は握っていた老人の手をさらに強く握った。もしも、それが細い首だったのなら、へし折ってしまうような力だったと思う。だが、老人の空ろな表情は変わらず、どこか遠い場所を見つめていた。
「僕はあなたを恨んでいたんですよ」
 気がついたら僕の両目から涙が落ちた。手の力を緩めるつもりもなく、穏やかな気持ちなど欠片もないのに、なぜだか眼の奥底だけが熱くて痛かった。
「僕らから人生を奪った人なんだから」
「・・・すまなかった。本当に・・・すまないことをしたな」
 老人の優しい声が聞こえる。
「どんな方法でもいいから、あなたに会いたかった。できれば、殺してしまおうと思っていたんですよ。それが、僕の人生の目標だった。22年間と決められた僕の目標です。分かりますか?僕は、目標に到達できましたよね?あなたに会えて、話す事もできたんだから」
「・・・殺さなくてもいいのかい?」
「今更、そうする意味もないって、あなた自身が一番分かっているんじゃないですか?」
 もう自力では動けそうもない老人の身体に毛布をかけ、もはや僕に出来そうなことはないと、心に言い聞かせる。
「一つだけ頼みがあるんだ。いいかい?カロン君」
「えぇ。僕にできることなら」
「私の代わりに、終末までの最後のカウントを見守っていて欲しい。本当に世界がどうなるのか、君の目で確かめてくれないか?」
「いいですよ。僕もそのつもりでしたから」
 僕は涙を拭いながら立ち上がった。
「少し眠くなってきたな。カロン君。今日はやけに寒いね」
 僕はそのまま踵を返して部屋を出て行った。最後まで部屋に入ろうとしなかったウルスラがその脇をすれ違い、つかの間老人に鼻先を寄せて、最後の別れを告げると、僕の足元へ戻ってくる。
「ウルスラを頼むよ」
 その言葉を聞き、小さくうなずき答えてから扉を閉じた。
 もう二度と、その扉は開かれることがないだろうと、僕は確信をもってそう思った。

 僕が眠っている間、ウルスラはずっと僕のそばにいた。付けっぱなしだったテレビはいつの間にか砂嵐になっている。また風でアンテナが吹き飛ばされたのかもしれないし、ついに目前となった終末を前に、もはや誰もテレビ放送などしなくなったのかもしれない。
 辺りは静かだった。観測所内も観測所の外も、ひたすら静かで、音がない。耳が痛くなるほどの静寂というのがあるとすれば、きっとこういう状況を言い表すのだろうと、僕は思った。
 観測所の中から開けられる屋上への階段から、苦心して椅子を一つ運び出した。それは、この数日間僕の部屋として割り当てられた狭い小部屋に放置されていた、木製の椅子で、暇つぶしにこっそり直していたのだ。
 狭い階段を昇り、椅子を屋上の中央に置く。
 終末を見届けるには絶好の場所だと思う。酷く寒いし、淋しいけれど、ウルスラがすぐそばにいてくれるから、きっと大丈夫だろう。
 僕は椅子に座って世界を眺める。
遠い遠い、地平の彼方で何か光が見えたような気がしたけれど、それが何であったのかは結局分からず仕舞いとなった。

 世界の果ての終末観測所にて、
 世界の終わりまで、残り 0:00:00:00。