無機質な炎のような願望

 ほんの少し昔。世界がまだとても小さかった頃のこと。

 「影追い人ってのは、いつもそんな物騒な格好しているものなのかい?」
 開口一番、ウェドが述べた感想はそんな感じだった。
 2日前、行商都市で知り合ったときのロイクは、柔らかい皮のベストと砂避けの上着を着た格好の旅人だった。旅人自体が珍しい人種なので、それだけでも充分に悪目立ちしていたのだが、一目ではロイクがそれほど危険な男には見えなかった。もの静かで孤独で、だがその腰にぶら下がった金の量は半端なものではない。だれが見ても影追い人だと分かる近づきがたい雰囲気に身を包み、酒場の端で料理を食べていた彼に声をかけられたのは、一重にウェドの物怖じしない性格と、己れの仕事への熱心さが成せるわざだった。
 一言二言話し、旅の共としての契約を結ぶまでにはそれほど時間は掛からなかった。影追い人とは常に雇い主を求める職業なのだ。仕事は自分で探さなければならないところに、向こうから話がくれば悪い話しではないということ。ウェドは、ロイクを雇い入れることに成功した。
「とっても動きづらそうだね」
 そして、街を発つために待ち合わせた朝。ウェドの前に現れたロイクはまさに、影追い人一族の最後の生き残りという出で立ちだった。
 身の丈以上はある巨大な槍を背負い、腰には太い銃身のライフルを下げている。反対側の腰には、砂狗も一太刀で殺せそうな短剣を、肩にかけたガンベルトには無数の弾丸が並び、太ももの辺りには、見たこともない細い筒状のものが巻きつけられている。
 その姿こそが、影追い人の本性なのだ。
「そんな格好で、本当に奴らと戦うのかい?」
「そうだ」
 切り捨てるような勢いできっぱりと言い捨て、背負った槍を肩から下ろし、どすんと地面に着いた。貴重な木を加工した柄にも、金属製の先端にも、繊細な細工が施されたそれは、まるで、古代文字で書かれた死の文であるかのようだ。それで、奴らを一突きすれば、殺せるのだろうか。そんな夢のような幻想を本当に信じてしまいそうになるほど、ロイクは力強くそこに立っていた。
「戦うというよりも、追い払うというのが正しいがな。奴らを屠ることは難しい。何人かの影追い人は、奴らを殺すことに成功しているが、いつも成功するとは限らない」
「へぇ・・・やっぱり、影追い人にも適わないんだ」
 ウェドはごくりと唾を飲み込んで、完全武装の影追い人にも殺すことが出来ない怪物がうようよいる荒野へ旅することは、この冒険を心に誓ったときから乗越えられるよう努力してきた恐怖だ。奴らは、恐れるものを知らず、音もなく近づいては人を喰う、そこからついた名は”人喰い”。人ならざる黒い影の怪物によって、世界は分断され荒廃し、今や旅をする者もいない。
「どうした?怖気づいたのか?」
「まさか!そんなわけない。もうずっと前から覚悟は決まってるよ!!」
 にやりと笑うロイクに、意地をはって答えては見たものの、目の前の影追い人ほど落ち着いて旅をすることができるか、ウェドには自信はない。それでも、足は前に進みたいと願うのだから、そうするしかない。これはもう、ウェドが生まれ持った宿命のようなものなのだ。
「それに、君を何のために雇ってると思ってるの?僕を守るのが君の仕事なんだからね。そのこと忘れないでよ」
「報酬分は働く」
「うん。まぁ・・・心強いよね。これからしばらくは一緒に旅をするわけだし、よろしくね」
 そう言って差し出されたウェドの手に、ロイクは少しだけ戸惑い気味に相手を見つめてから、静かに手を握り締めた。
 ウェドの手は、その見た目のひ弱さとは裏腹に骨ばっており、作業人の手だった。器用さを表すように細長い指は間接が太く、奇妙な形にねじれている。長年の油汚れのおかげで、黒く変色した皮膚は、明るい表情が表す陽気さとは裏腹で、長年の修行を物語っている。
 ロイクが雇われ人としてウェドを選んだ理由はそれだった。ただたんに、興味本位で旅をする者とは違う。気安く声をかけてきたときには警戒した彼の陽気さは、その向こうにある目的とは関係ないものだと思ったから、ロイクはウェドの話に乗ることにしたのだった。
「じゃあ、行こうか」
 言いながらウェドは自分のトライクの方へと歩き出した。まだ子供だった頃から慣れ親しんだ古い型のそのトライクは、元々ウェドの父親のものだったが、彼がこの世から姿を消すと、ウェドのものになった。ウェドは長旅に耐えてきた愛機を、この日のためにこつこつと改造し、2人以上の乗車と大型の荷物を運べるように牽引もつけている。
 年季の入ったヘルメットとゴーグルをかけるウェドの後ろで、ロイクはふと不思議に思っていたことを思い出して立ち止まった。自分の槍を掲げ、後ろの荷台に乗せながら、影追い人の男は、年若い地図屋の姿をじっと眺めた。
「一つ、聞いてもいいか?」
「ん?なに?」
 ゴーグルを調整しながら、ウェドが振り返る。
「どうして、おまえは地図屋になったんだ?」

 厳密に言うならば、地図屋なんて職業はこの世のどこにも存在していない。あくまで自称であって、己の腕一本だけで無限の地図を描き続けるこの職を認めてくれるのは、おそらくはウェドの父親クドルアだけだろう。彼もまた地図屋であり、地図の歴史を心得ている数少ない男だった。
「地図屋はただ単に、地図を作るだけじゃない。その場所、地形、そこに住む人々が、どうやってそこへやって来たのか。どうして、その地形ができたのかを調べて、記録する仕事なんだよ」
 トライクを東の方角へ向けひたすら走りながら、ウェドは自信満々という感じで後部座席のロイクを振り返った。最初に街を出発してからもう3日間も、同じ方向へと向かっている。ウェドの話では、この辺りの地図はすでに完成済みなのだそうだ。
 夜行性である"人喰い"たちが昼間に姿を現すのは稀だが、それでも用心に越したことはないと、常にライフルを腕の中に抱きながら、ゴーグル越しに辺りを見ていたロイクもまた、ウェドを振り返り見る。
「とっても名誉な仕事だよ。君のと同じようにね」
「オレには、ただの物好きとしか思えないな」
「地図作りがかい?」
「この荒野をどこへともなく旅することがだ」
 ロイクが指し示す方向。それは、彼ら2人を取り囲むすべての目に見える範囲を示す。岩と砂。かすかな草は枯れ果てており、乾燥し、生き物の姿もない。ロイクの知る限り、この先に人が暮らしている村や町はないはずだ。もしかしたらあるかもしれないけれど、それはロイクの知る範囲ではないから、彼の中では未知の世界である。
「こんな、何もない場所で地図など作れるわけがないだろう」
「言ってくれるじゃないか!」
 冷たく言い放つロイクの物言いにもめげず、むしろ嬉々として反論しながら、ウェドは荒野の先の先を見つめた。
「君には、何もない平野に見えるのかな?でもね、ただの平たい平野に見えるけれど、その下には、無数の穴があるんだよ。大きいものも小さいものも様々だけどね」
 ロイクは再び荒野に目を向けた。ウェドの話には、あまり興味が沸かないのだ。だが、陽気な地図屋はそんなことなど構わない。
「ほとんどが砂に埋もれている。穴が露出している地域もあるんだけどね。この辺りは、風が強くて運ばれてきた砂の量が多かったんだな。つまりとにかくさ、そういう地下にも目を向けなきゃいけないってこと。ただ何もない場所じゃ、方角を見定めるのも難しいけれど、地下のちょっとした違いで地図を作ることができたら、それだけまっすぐな道を作れるだろ?」
「道を作るつもりなのか?」
「僕は地図を作るだけだよ。地図があれば、道は勝手にできるものだからね」
 そういってウェドは笑った。
「この荷台に乗っているのが、父さんが作った計測器なんだ。ある一点から、装置までの距離を測り記録してる。旧世界の装置を父さんが改造したんだよ。地図作りのためにね」
 その底知れぬ自信はどこから沸いて出てくるのだろうと、ロイクは呆然と考える。
「まだ行ったことのない場所へ行って、観測の基点を設置するんだ。そこから、できるだけ多くの場所を動いて、距離を測定していき、線で繋いで地図を作る。どう?おもしろいでしょ?」
 まだウェドの話は続いていたが、影追い人の耳にはほとんど入らなかった。それよりも興味をそそられるのは、ウェドが作っている地図のことだ。
 大昔、地図屋というのはもっときっちりとした仕事で、地図屋もたくさんいたと聞く。世界を網羅する地図は無数に存在し、その正確さは、まるで風景をそのまま見ているかのようだったという話だ。だが、いつの頃からは、世界の形は崩れ、境界線は薄れ、地図は意味を成さなくなっていったのだ。
「僕はさ。出来るだけ広い範囲の地図を作って、そこに住んでいる人たちの生活が少しでも便利になればって思ってるんだよ。もちろん、今でも街道はあるけれど、必ずしも安全とはいえないし、君たちみたいな影追い人がいなければ、旅をすることができないのは事実だけど・・・」
「この先には街などないだろう。村どころか、人が暮らしているような気配もない。このまま進むだけ無駄だ」
「無駄なもんか!」
 ウェドは鋭く言い返す。
「誰も知らないだけで、この先にも人が住んでいるかもしれない。考えてもみてよ。今、僕らが街と街を行き来しようとしたら、頼りになるのは、そこへ行ったことがある人の記憶と経験と勘だけなんだよ。そんな頼りないものじゃ、本当の世界の姿なんか見えないんだ。街の場所なんて、知らないだけかもしれない。案外近い場所に村があるのかもしれない。そういう、みんなが共有できる知識を、僕は作りたいんだよ。そのための旅なんだ」
 ロイクは何も答えなかった。無言だけが返ってくる居心地の悪さに、ちらりと旅の共を振り返って見ると、彼は相変わらずの厳しい顔つきで荒野を眺めていた。その先にある、見たこともない街でも探しているのだろうか、とウェドは考えたけれど、次におもむろに持ち上げられたロイクの指先は、まったく別のものを指差した。
「そういう知識があっても、奴らが居る限り、適わない夢だな」
 厳かにつぶやかれた言葉の重みに、ウェドの心はずしりと重く、息苦しくなる。ロイクが指差した先を見なくても、そこに何が存在しているのか手に取るように分かったからだ。出来ればそちらへ目を向けたくはない。だが、この世界に生きる以上、受け入れなければならない存在。
 地平の彼方に蠢く黒い影は"人喰い"特有の、甲高いような悲しげな声を上げながら、荒野を横切っていた。
 思わずトライクを停車させた、ウェドはその生き物を見ようとした。それが、生き物ならばそうとう大きく、この世の者とは思えないほど醜い姿は、今ははるか遠くで、のそのそと這うようにして動いていた。
「"人喰い"を見るのははじめてなのか?」
 からかうように言うロイクの言葉に、酷く傷ついたようにウェドは影追い人の男を見た。"人喰い"を見たことがない人間などいない。もしも、そんな人間がいるとすれば、それはとっくの昔に"人喰い"に喰われて死んだ奴だ。
「襲ってはこないさ。太陽の下では、奴らの動きは遅くなる。この距離なら、こちらに気づかずに行ってしまうだろう」
「・・・そんな心配してるんじゃないんだ」
 ロイクはため息をつき、懐から望遠鏡を取り出すと、よろよろと動く"人喰い"の姿を確かめた。幸いなことに、奴に襲われている街も村も、人の姿も見当たらなかった。
「安心しろよ。オレの知っている限り、この辺りに人の住んでいる場所はないはずだ」
「でもいつか、あいつは人を襲うだろう?」
「あぁ。昼間に出てくる奴は、空腹で気が狂いそうになっている奴らだからな。今夜あたり、どこかで人が襲われるかもしれない」
「あいつを殺すことはできないのかい?」
「オレたち影追い人は、身を守るためにしか槍を使わない。それ以外に使うことは自殺行為だからだ」
「そう・・・か」
 納得できないという響きはたしかにあったけれど、ロイクを非難するほどウェドは愚かではなく、むしろ自分の無力さへと心は沈んだ。  結局のところ、どれほど地図を作ってみたところで、どれほど強い武器を作って立ち向かったところで、奴らには適わないのだろうか。人は、奴らに食い尽くされるにまかせ、諦めて生きていくしかないのだろうか。生まれたその日から繰り返されてきた疑問に、ウェドは深いため息をつき、彷徨う"人喰い"を避けながらトライクを発車させた。

 ウェドは機械谷の生まれだ。
 父クドルアは優れた機工師で、母マリエーラは発掘師だった。ウェドは2人にとっては最初の子供で、生まれる前から期待される待望の息子だったのだ。
 だが、彼が生まれたその日、機械谷を大量の"人喰い"が襲った。発掘の要所であり完全防備の要塞である機械谷が襲われることは稀で、強固な防衛網が"人喰い"たちを防いできたにも関わらず、所詮、人が作ったもので"人喰い"を追い払うことはできなかったのだ。
 ウェドの母もまた生まれたばかりの赤ん坊を連れて必死に逃げたけれど、真夜中の亡者たちの手は早く、あっというまに人々が食い殺され、跡形もなく姿を消していく中、産後で弱った体では逃げ切れないと諦めるほかなかったのだと思う。
 マリエーラは、母親の顔を見ることもできないような小さな息子をトライクの荷台の箱の中に隠し、そのまま姿を消してしまった。
 そのときのことを、ウェドは覚えているはずもないのだが、以来暗く狭いところが嫌いなのは、きっと母の愛ゆえなのだと信じている。
 泣き声を聞きつけて、箱から助け出してくれた父が見たのは、人の居なくなった寂れた情景だけだっただろう。"人喰い"は人だけしか喰わず、街を破壊することもない。突然影のように現れて、人だけを喰い散らかして去っていく。あとに残るのは、人だけが消えた、廃墟なのだった。
「僕の父はね。その日、街を離れていたんだよ。新しい装置・・・測量器を試すためにさ」
 ウェドは、燃える焚き火の火を見つめながらぼんやりとつぶやいた。夜気の冷たい風が頬をなで、昼間の暑さとは裏腹に肌寒さに身震いしながら、荒野の果てを眺めるのは、まるで世界の裏側にでも居るかのようだった。
 古い岩の間にできた空洞の位置を地図の上に記したのは、ウェドの父親だった。できるだけ安全に地の利を得るために記された旅人のための休息所の一つだった。
「その頃から、僕の父は旅をしながら地図を作り始めたのさ。たぶん、復興したとしても、谷には居たくなかったんだろうなぁ」
 空洞の奥で自身の槍を手入れしながら、ロイクは黙ってウェドの独白を聞いている。別に、だれが乞うたわけでもなく、黙々と話し続けるウェドの動揺を表すように、焚き火はゆらゆらと揺れている。
「だから、僕が地図屋になったのは必然っていうか・・・父の後を継ぎたかったっていうか・・・。ただ、"人喰い"に対抗する方法として、僕や父には、地図を作ることしかなかったんだと思う。君みたいに戦うことはできないからさ」
 ウェドの脳裏にも、ロイクの記憶にも、昼間見た"人喰い"のおぼろげな姿が思い出されていた。夜の刻となれば、情け容赦なく人を食い荒らす奴らが、今頃はどこかの村を襲っているのだろうかと考えるだけで身震いする。もしかしたら、まだこの近くにいて、姿を見せないままウェドたちを狙っているかもしれない。
「ごめんよ。こんな話、つまらないよね・・・」
「別に」
 ロイクは短く答え、槍を岩の壁に立てかけた。
「珍しい話でもないけどな」
「君も似たような経験を?」
 ライフルを持ったまま影追い人は、入り口を塞ぐように炊かれている焚き火を通り越し、ゆらりと空洞の外へと歩き出た。
 "人喰い"は火を嫌うから、夜を過ごす間は焚き火を絶やすことは出来ない。火こそが、人が"人喰い"に対抗できる唯一の手段であり、生命を繋ぐ方法だ。
「どこへ言ったって、同じような話を聞く。家族を"人喰い"に喰われた者、住む場所を失った者はもっと多い。憎しみが生まれ、争いが起こる。人は勝手に数を減らしているし、もしかしたら、"人喰い"に喰われ尽くす前に、オレたち人は、滅びるかもしれないな」
「そんなこと・・・!」
 とっさに反論しようとしたけれど、反論の理由が見当たらず、悔しさのあまり唇をかみ締めた。
 ロイクの言っていることは正しい。限りある資源を巡っての争いは、どこでも起こっているし、小競り合いは日常茶飯事。かろうじて、人の心を縛ろうとする少数の宗教団体にしても、各地の小事には目も向けないし、争い殺し合いはどこも耐えることはない。
「地図さえあれば・・・」
 ウェドはぽつりとつぶやく。
 もしも、資源を共有できたのならば、そうした争いは減るだろうか。街道が整備され、街との間に工商が行われ、多いものは分け合い、少ないものは補い、そんな生活はできないのだろうか。
「地図がありさえすれば、きっと生活はもっとよくなるよ。きっと・・・」
 ロイクは否定も肯定もせずに、静かに佇んだまま、荒野へと思いを馳せる。
 彼に言わせれば、地図など無駄だ。そもそも地図を必要とするほど遠くへ旅する者など、影追い人かよほどの物好きか。今でも多少の交易路は確保されているし、世の中はそれでなんとかなっている。それになにより、地形は刻一刻と変動し、人の意思などお構いなく変化していく現状で、"人喰い"に襲われて消えていく村や街は多く、一度作った地図も、すぐに役に立たなくなるだろう。
 こんな旅は無意味だと、思い上がった地図屋に言ってやりたかった。
 こんなことをするくらいならば、地図を描くという能力を別の方向へ使うべきだ。もともとは機械谷の生まれなのだし、機工師にもなれただろうに、どうして、焚き火のそばに座り、自分の使命感と、目の前に広がった現実の間で葛藤しているこの男が、地図などというものに拘るのだろうか。
 それは不思議に思うと同時に、また興味を引かれるのも事実。
「ねぇ、これ見てよ!」
 ふいに呼ばれ振り返り見れば、表に泊めてあるトライクから大事そうに空洞の中へと持ち運んだ荷物の中から、ウェドは小さくたたまれた紙を取り出し、地面に広げた。
 小さくたたまれてはいたが、広げてみれば大きな紙は丈夫な羊皮紙だった。とても高価なその紙を、何枚も組み合わせ、不規則に広がった紙の上に描かれていたのは、まさに、ウェドが完成させようとしている、地図である。
「これが、僕の地図だよ」
 そこには、ロイクの見たことのない世界が広がってた。基準となる機械谷を中心として描かれた、地形の起伏、街や村の位置、街道沿いの避難場所、最短距離の道、ホール穴の形。きめ細かく書き込まれた小さな絵文字。滑らかな線が走る紙の上には、もう一つの世界が広がっているように見えた。
「この地図は、北へ向かって広がってるんだよ」
 ウェドは、今日まで自分達が旅してきた地点を指差し、そこから無地で表された北の方角を指し示す。
「北へ向かえば、この荒野を抜けて、もっと穏やかで豊かな土地があるかもしれないって。父さんはそう考えたんだ。僕もそう信じてるよ」
「嘘みたいな話だな」
「うん。嘘かもね。でも、だれも、嘘だって決めることはできないでしょ?だれも、そこに何があるのか知らないんだからさ」
 世界の果てなどあるのだろうか。この荒野が終わる場所が。そのことについて考えてみたけれど、ロイクには答えを導き出せるだけの経験も知識も足りない。まだ誰も知らない場所。北の果ての豊かな世界。もしもそんなものがあるのならば、自分達の今の境遇はまるで、罰ゲームのようなものだな、と影追い人は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「夢なら寝てる間に見るんだな。もう寝るぞ」
「夢なんかじゃないって!それを証明したいんだ!」
「不寝番は2時間交代だ。オレが先に立つ。おまえはさっさと寝ろよ」
 まだ何か言いたげなウェドには構わず、ロイクは辺りに"人喰い"の気配がないか探すべく、逃げるように空洞を出て行こうとする。
「ちょっ!君が居ない間に、"人喰い"が来たらどうするのさ?火のそばでガタブルしてろっていうのかい?」
 不服そうなウェドにうんざりだというようにため息をつくと、ロイクは太もものベルトに取り付けている、黒い筒を一本投げて渡した。直径は2センチほど、長さは30センチの真っ黒い筒だ。たぶん、何か燃えやすい材料で出来ているのだろうが、ウェドにはその正体は分からない。
「いざとなったら、コレに火をつけて投げつければいい。できれば口の中がいい。長い間燃えるように火薬を調整してあるから、自分で持っていても、奴らは恐れて近づいてこないだろうさ」
「本当に?」
 こんなもので?と問いかける言葉も聞かず、ロイクは姿を消した。


 それから2週間の間。ウェドとロイクはひたすら北を目指して進んだ。時には立ち止まり、距離を測りながら地図を描いては、先へと進む。それの繰り返しだ。ウェドが期待したような街や村はなく、起伏の乏しい岩と砂の砂漠が続くばかり。最初の街から持ってきた食料は底を突き、時々、狩りをしては砂狗や砂魚などを食べるほかは、枯れた葉とかすかな雨水で食い凌ぐ日々が続く。
 それでも立ち止まろうとしないウェドに、ロイクはため息をつきながらも付いていく。食べ物は少なかったが、長期の飢餓にも耐えられるよう訓練されているロイクには、さして負担はなかったし、途中からはむしろ、ロイクのほうがウェドを心配するようになっていた。
 だが、ウェドは頑固だった。
 乗りかけた船なのだから、ともうロイクは諦めていた。
 途中、何度か"人喰い"に遭遇することがあった。奴らはどこからともなく現れては、昼ともなく夜ともなく襲ってきた。基本的には夜行性であり、昼間は弱っているのが一目瞭然ではあるが、近くに人がいればお構いなしに姿を現す。
 そういう時、唯一の防衛手段は火である。火だけを苦手としている"人喰い"は、火を見ればよほどのことがない限りは近づいてこない。それに、今はそばに影追い人がいる。ロイクが全身に纏う炎の気配を察しているのか、"人喰い"が現れても、一定の距離を置いては、近づけない苛立ちに喉を鳴らし、知らないうちに姿を消すことが多かった。
 そんな平坦な日々が終わりを告げたのは、3週間目の中ごろのこと。荒野を遮るように鎮座した岩場を迂回して、向こう側に向けた時だった。
 黒い煙を立ち上らせる村があったのだ。

「酷い・・・」
 きっちり1分間沈黙した後、ようやくウェドが搾り出すことができた言葉は、たったそれだけだった。
 村は燃えていた。
 低さ5メートルほどのホール穴の中に築かれた、たった10棟ほどの石と土で固めた家々から立ち上る赤黒い炎は、不吉な匂いを発しながら荒野を発ち昇り、日を遮ることのない青い空の上まで上っていく。
 ウェドとロイクは、ホールの縁に立ち尽くして、目を背けたくなるような状況を眺めていた。
「"人喰い"に襲われたんだ」
 勤めて冷静な声を選んだつもりだったけれど、さすがのロイクにもこの状況は酷だった。
 鼻を突く異様な匂いの原因は、村でもっとも大きな建物の中にある。それは、"人喰い"を追う影追い人にとっては、ごくたまに遭遇する状況ではあった。だが、何度そういう村を見たとしても慣れることはない。ましてや、ウェドにとっては、想像だにしなかった現実だろう。
「・・・どうして・・・こんな・・・」
「"人喰い"は生きた人間しか食わないんだ。人間以外の生き物にも、無生物にも、死体にも興味を示さない」
「だからって!これじゃ・・・」
 がしゃんと音をたてて、最もひどく燃えている建物の屋根が崩れ落ちた。更なる黒い煙がどっと村中を覆い隠し、胸が悪くなるような匂いが、ウェドの空っぽの胃袋を逆転さえようとする。
 建物の中は、この小さな村に暮らしていた人々の黒焦げになった死体で埋め尽くされていた。
「よくあることさ」
 ウェドは燃えた煙に目をやられ、大粒の涙をながしながら、耐えられず村に背を向ける。吐き気を催しよろよろと後退したけれど、人間の絶望そのもののような黒い煙の匂いに逆らうことができず、低い嗚咽とともに何もかも吐き出した。
「"人喰い"に喰われるよりはいくらかましだろう。そういう意味では、この村は救われたのかもな」
「そんな言い方するなよ!」
 無意識のうちに鋭い言葉が口をついて出た。空っぽになってもなお吐き出そうとする胃を叱咤し、ウェドは悲鳴のように叫んでいた。
「誰も救われてなんかないだろ!死んだんだ!皆、自殺したんだぞ!!」
「それがどうした。選んだのは彼らだ。他のだれでもない。オレたちにはどうしようもできないさ」
「でも・・・!!」
 言いかけた言葉は、音にならずに零れ落ちてしまった。再び襲ってくる吐き気に、思われず倒れそうになりながらも、何とか必死に立ち尽くしたウェドは、ロイクを攻めるような目でにらみつけた。
 誰も悪いわけではない。ロイクを責めることはお門違いだとも理解している。だが、誰かを責めたいと思ってしまうのは心の弱さ故だろうか。この村にたどり着く間に遭遇した"人喰い"を一匹でも殺していたら、村は助かったのではないかと思ってしまうのだ。
 村は死んだ。
「ウェド!!」
 ふいに、名を呼ばれたとき、呆然と意識をなくしかけていたウェドは、ロイクの驚愕と恐怖の表情を始めて見た。恐れ知らずの影追い人も、そんな顔をするのだと、妙なところで感心する。
 彼の手が、目にも留まらぬ速さでライフルを抜いたときでさえ、ウェドには自分に迫った脅威など、気づきもしなかった。
 ばぁんという爆音が、耳元で唸る。熱い風が頬を撫で、肌が痛い。はっとして、振り返り見れば、ロイクのライフルから放たれた弾丸が、黒い影の胸の中に突き刺さるところだった。
「ウェド!逃げろ!!」
 "人喰い"だ。
 両手を広げ、力なくうずくまるウェドを捕まえようと"人喰い"の影が近づく。その姿は黒く、到底生き物とは思えないような闇を孕んでいた。不気味なことにその姿は人間に似ていて、頭には目と口らしき空洞がドロドロした皮膚の中に見て取れる。まるで世界の底から唸るような声が、耳をつんざつ。それが悲鳴なのだと気がついたのは、ロイクの二発目の弾丸が、"人喰い"の額に突き刺さり爆発するのを見たからだ。
「ウェド!下がれ!!」
 言われるまでもなく、抜けた腰を引きずってウェドは、ロイクが踏ん張っている場所まで後退する。"人喰い"の最初の一撃を逃れられたのは、偶然にも今が昼間だったからだろう。そうでなければ、奴らの手が届く所から逃げおおせるなど、影追い人でも無理だ。
「どうして・・・"人喰い"が・・・」
「村人を喰えなかったんで、気が立ってるんだ」
 早口に言いながら、ロイクはライフルの弾を装填する。その間にも、"人喰い"の悲痛な叫び声が響いていた。
 恐ろしいことに、“人喰い”は、人に傷つけられる痛みを感じるのだ。
 ロイクは、さらに2発弾丸を撃ち込んだ。太い銃身から発射される弾は、普通の弾丸ではなく、"人喰い"の体に当たった瞬間に、鋭い矢の勢いのまま破裂した。特殊に火薬を調合した炸火弾だ。普通の弾丸を吸収してしまう柔らかい"人喰い"の皮膚も、火を伴えば傷つけることが出来るのだ。もっとも、それも一時的な牽制にすぎないが、少なくとも、歩みを遅らせ体力を削ることには役に立つだろう。
「逃げろ!ウェド」
「・・・逃げるって・・・どうやって・・・」
 驚きと恐怖に体が言うことを利かず、未だに立ち上がれないで居るウェドを引きずって、ロイクはじりじりと後退する。悲鳴をあげる"人喰い"は、しかし歩みを止めようとはせず、2人に迫ってくるのだ。昼間のため足は遅いが、いつまでも逃げ続けられるわけがない。
「オレが囮になっている間に行け」
「で・・・でも・・・」
「いいから行け!!」
 激しい恫喝と一緒に、突き飛ばされた。とっさに追いすがろうとするウェドを振り払い、ロイクはさっと身を翻して"人喰い"へ飛び掛っていく。
 背中の槍を外し、前へ構えると同時に、ライフルを背中に回す。できるだけ早く、長短距離の武器を使い分けられるように工夫された、影追い人の技だ。炸火弾で牽制しつつ、近づいて槍を使う。槍の刃先は特殊な金属で出来ており、実体を持たないような粘質の“人食い”の身体をも傷つけることができる。もっとも、自然界の生き物では考えられない治癒能力を持った彼らに、槍の傷など大した威力はないのだが、少なくとも痛みを与えることはできる。
 炸火弾による花火が散り、“人食い”の体の一部がはじけ飛ぶ。ぼたぼたと落ちるその欠片を避け、ロイクは槍を突き出した。剣などに比べたら十分なリードを確保できる槍であっても、巨大な“人喰い”の前ではあまり意味はない。一突きしては身を翻し、怒りに任せて振り下ろされる手から飛び退りながら、再びライフルを構えた。右回りにぐるりと間合いをつめ、背後に回ろうと試みるが、一瞬の痛みから即回復してしまう“人喰い”の目が、ロイクを見失うことはない。背筋がぞっとするような正確な視線で狙い定めてくるのだ。それはつまり、囮としての役目を十分に果たせているのだから、ウェドを逃がすためには効果的だろうが、一方ではロイクの紙一重の攻防戦を意味する。
 脇腹へ一撃を食らわせたとき、横凪に振り払われた“人喰い”の指先が、右足を掠めた。
「くそっ・・・!」
 鋭い痛み、燃えるような熱が駆け上がってくる。それはただの怪我ではない。毒の傷だ。“人喰い”に触れた者は呪われるというけれど、まさにその通り。槍を背に戻すと、ロイクはベルトの短剣を引き抜いて、“人喰い”から受けた傷をさらに深く切り裂いた。毒を含んだ肉をそぎ落とすためのとっさの処置だが、とうてい効果があるとは思えなかった。
 再び槍を取る。“人喰い”はすでに、衝撃から立ち直っている。獲物を手に入れ損ねて怒り狂っていた怪物は、新しい獲物を見つけて楽しそうだった。追い払うどころか、これでは嬲り殺されるだろう。
 ロイクは黒い筒を取り、地面にこすり付けて火をつけた。もともと燃えやすい火薬を含んだ発火筒は、ぱっと燃え上がり白い光を放つ。それを、“人喰い”の口めがけて投げながら、影追い人は、身を翻していた。
 殺すことも追い払うこともできないのならば、あとは逃げるしかないのだ。
 すでに十分に時間は稼げているはずだ。ウェドが逃げおおせ、安全な場所に身を隠すには十分な時間があったはずだし、発火筒を持っているから身を守ることはできるだろう。ただ無事にウェドが逃げていることを願う。あとは自分の身だけを護ればいいのだから。
 発火筒の炎に油断した“人喰い”の目をかいくぐり、距離をとってライフルで応戦。それを繰り返しながら逃げる方法を考える。自分一人ならば逃げられると思った。逃げ足には自信があった。
 だが、次に振り返ったとき、ロイクの目の前に“人喰い”の手が迫っていた。
「なっ!」
 とっさに身をかわそうとしたけれど、足が縺れて前のめりに転がった。その動作が幸いして、“人喰い”の手は頭上を掠めたが、同時に、槍の半分を持っていかれる。背中からもぎ取られた槍は、真っ二つに折られて、ロイクの傍らに転がる。慌てて起き上がろうと試みるが、右足が動かないことに気がついた。例の傷のせいだ。出血がひどく、目を向ければ真っ赤な傷口が生々しく開き砂に覆われておぞましい光景を作り出している。
 これまでかと思う。にやりと笑う“人喰い”の顔が迫り、闇の匂いがかげそうなほど近くに、その空虚な目を見る。吸い込まれそうなほど深く底のない、ぞっとするような目だ。
「ロイク!!」
 耳元で発火筒のしゅっという音が響く。“人喰い”が何事かと顔を上げた瞬間、目の前に白い炎が広がった。
「ロイク!!」
 どうして逃げなかったんだと、声が出るものならば全力で叫んでいただろう。両足を震わせ、両目から涙を流しながらそこに立っていウェドを見て、影追い人は、これほどの絶望はないと思った。
 ぬっと、“人喰い”の手が伸びる。
「逃げろ!!」
 声ははっきりとした響きをもって辺りに木霊した。だが、意味を成すには遅すぎた。
 ウェドが逃げるにはすでに手遅れで、“人喰い”の手は無抵抗な人間を捕まえるためならば、何よりも早く動く。
 それはあっというまだった。ウェドには悲鳴をあげる瞬間も、絶望を認識し達観する暇もなかっただろう。ただ、逃げろとその目は訴えていた。“人喰い”の手に捕らえられ、動けずにいるロイクの頭上で、血しぶきを上げて喰われる瞬間まで、彼はただ「逃げろ」と言っていた。
 逃げろ。逃げろ。逃げろ。
 ロイクはとっさに傍らの槍を取る。半分の短さになり、頼りなく両手に収まったそれを握り締める。“人喰い”は一人目を食して満足そうに低い唸り声を上げていた。だから、自分の懐の中で、往生際の悪い人間が一人、ゼロ距離でライフルを撃つなどとは思ってもみなかっただろう。
 ばぁんという自分の身体に雷鳴が落ちたのではないかと言う錯覚。顔中に火花が散り、熱さのあまり片眼が焼けた。ライフルを撃ち込んだ右腕もダメになった。だが、左手は無事だった。槍を構え、最後の力を振り絞り投擲するだけの力は残っていた。
 影追い人の槍は、“人喰い”の心の臓を貫き通し、深々と突き刺さったのだ。


 ロイクは、砂漠の商隊の生まれだった。
 定住することなく、どこからともへと移動して商売を生業とする彼らの数はとても少なかったけれど、"人喰い"から身を守る方法を心得た貴重な人々だった。
 商隊の中には地図師という老人が一人いて、記憶と経験から頭の中にある地図を元に商隊を導く役を担っていた。彼は隊の長であり、命綱だった。
 "人喰い"に襲われ、隊長ともども商隊の半分を失った時、生き残った者にとっては、先の見せない絶望と恐怖だけが残された。道を知る者はおらず、残りの食料は少ない。彼らの争いは必然的で、生き残るために殺し合いが始まるまでには時間は掛からなかった。
 まず最初に女が死んだ。ロイクは母親も、目の前で"人喰い"の囮にされ、父親は助けようともしなかった。
 次に年寄りが死んだ。強き者は抵抗したが、古き経験や知識も若さの前では立ちうちできなかった。
 次は子供が死んだ。その頃になるともう良心の呵責などなくなっていたから、支配層の男たちは楽しむように人を殺し、"人喰い"に食わせ、この世の終わりのような惨劇が繰り返されていた。
 年端も行かない子供だったロイクは、そういう男たちを殺して生き残ったのだ。それまで、自分を可愛がってくれた者たちを手にかけ、父親も年の離れた兄も殺した。気がつけば、果てしない荒野の血溜まりの中でたった一人立ち尽くしていた。
「生きて・・・?」
 ロイクが目を覚ましたとき、自分が呼吸し声を発せられた事実に驚いた。とっくの昔に死んでいるものと思っていたのだ。
 痛む身体を無理矢理に引き起こす。ロイクは、カチカチに固まってしまった"人喰い"の死体の中にいた。崩れ落ちた"人喰い"の身体は宝石のように輝く黒い石になっていた。
 辺りはすでに暗い。半日間日に当てられてた火傷した彼の顔は、嫌なにおいを発しながら水ぶくれに覆われ、右腕の骨が砕けており、ほとんど動かない。足の傷には、痩せ細った蛆虫が湧いていた。
 それでもロイクは生きていた。
 あれだけ燃えていた村の火は尽きたようで、まだかすかに空気が暖かい。夜の強い風に流された匂いも消えうせていた。
 よろよろと立ち上がり辺りを見回す。"人喰い"の心臓を刺した槍はすでに使い物にならないほど腐食していたので、折れた半分を拾い上げて杖代わりにする。ライフルも無事だったし、自分の血のついた短剣も近くに落ちていた。なにもかもが、止まってしまったかのようにそこにあった。もう何年もそこに放置されていたかのように。
 ごろごろと転がった"人喰い"の死体を掻き分けて、頼りなく歩き回っているうちに、ロイクは干からびかけた一本の腕を見つけた。その腕は、父親から引き継いだ地図を握り締めて、最後まで逃げようとした証に固く引き結ばれていた。
 ウェドは最後まで、地図を守ろうとしたのだ。
 そのそばに跪き、ロイクは我知らず涙があふれ出してくるのを感じていた。塩気の涙が、焼け爛れた肌の上を滑り落ちひりひりと痛むのも構わず、止め処もなくあふれだす嗚咽を止める術もなかった。それまで忘れていた吐き気に襲われて、ボロボロの体の中身を吐き出してしまうと、もうこの身に残しておくものはないという勢いで、声を嗄らした。泣き叫び、罵り、嘆き、これほどの言葉を発するのはどれくらいだろうか。この身が枯れ果てて朽ち果てるまで叫び続けたい衝動に、ただただ夜の闇を呪った。
 どうして生き残ってしまったのか。こんな卑しい命が生き残るべきではなかったはずだ。ウェドが生き残り地図を完成させるべきだったはずだ。なぜ、自分が生き残ってしまったのか。その答えが知りたくて叫ぶ。果てしなく広がるだけの黒い天は答えなどくれなかったが、叫ばずにはいられない。
 叫び疲れて体力がなくなり、傷から毒が入り、ついに麻痺して動けなくなり、じりじりと太陽に焼かれて死ぬまで、そのまま叫び続けていれば気が晴れるような気がした。
 どれくらい経ったのか。
 ようやく気分が落ち着いてきた。ロイクは生々しいまでに力強いウェドの腕を拾い上げ、その指を一本一本解いて地図を取った。ウェドが最後まで守ろうとしたものだ。もしもできることならば、彼が作った地図を守ってやりたかったし、彼の代わりにできることならばなんでもしてやろうと心に決めた。彼のおかげで拾った命の使い道くらい、ロイクは承知している。
 この荒野では、助けを求めて迎える場所もないのは分かっている。怪我のこともあるし、どっちみちこのままでは長い命ではないけれど、最後まで悪あがきをしなければ気がすまない。
 ロイクはウェドの地図を懐にしまいこむと、立ち上がりよろよろと歩き始めた。ウェドのトライクに寄りかかり、動かせるかやってみたけれど、咳き込むような音を立てるだけでエンジンはダメになっている。たぶん、砂が入り込んでしまったのだろう。持っていけそうなものもほとんどなかったから、そのままロイクは歩き出した。
 どうせ向かうのならば北がいい。ウェドが夢見た方角だ。
 もしかしたら、そこには何もないかもしれない。ただひたすらな砂と岩が続き、見渡す限りの地平の果てまで、希望に見放された世界が続くかもしれない。だがもしかしたら、ウェドが言ったように、彼が探していたもっと穏やかで豊かな土地があるかもしれない。それは草木が育ち水が溢れ、平穏に暮らせる土地だろう。
 北へ行こう。行けるところまで、命が続く限り。

 それは熱のない、無機質な炎のような願望。