少年の日

 窓の外はどんよりと曇った雨雲で覆われていた。流れていく灰色の風景の中を、さきほどから振り出した雨粒が過ぎて窓ガラスを濡らす。少し外は寒かったから、自分の息でガラスが曇るのを見ながら、アレンはすぐ隣の席に座っている、海美の様子を伺った。
 スプリングフィールド行きのバスに乗り込んでからずっと海美は黙りこんだまま、じっと俯いている。アレンが話しかけても、うるさい!とか黙っててとか、いつもと同じ鋭い言葉が返ってはくるけれど、その後の会話は続かない。まるで火が消えてしまったようだ。
 いつもの海美は、アレンを振り回してばかりのお転婆な女の子で、一つだけ年下のアレンの手を取っては、両親に禁じられているにも関わらず裏山の雑木林の中を探検したり、こっそり自転車で隣町まで行ってお菓子を買ってきたり、とにかく冒険好きで、本当なら家でゆっくり本を読んでいたいアレンを無理矢理お供に連れ出すのだ。もしも口答えして抵抗しようものなら、海美は容赦なく頭を叩いてくる。海美には2人の兄がいて、必然的に腕っ節が強かったから、一人っ子でどちらかというとひ弱なアレンが勝てるはずもなかった。
 そんなわけで、こんな雨の日にも関わらず、朝っぱらから海美が現れた時は、ひどく憂鬱な気持ちになったのだった。
 だが、今日の海美は様子が少しだけ変だった。いつも持っている古臭いポシェットではなく、一つ上の兄の大き目の鞄を背負い、傘も持たず、自転車でもなかった。走ってきたの?と訪ねると、有無を言わさず手をつかまれ、引き寄せられた。
「これから家出するの」
 と彼女は言う。びっくりして、どこへ?と問いかけると。
「どこでもいいの・・・。ううん!やっぱり、スプリングフィールドがいいわ。バスで行くのよ。そこからなら海が見えるはずだもの」
 彼女がぐいぐいと手を引っ張るので、慌てて腕を振りほどいて、アレンは家の中に戻った。家出なんてまっぴらごめんだ。行けるはずがない。そう彼女に言ってやりたかったのだけれど、案の定言葉は出てこなかった。
「いいから、はやく準備してきてよ!」
「そんな・・・無理だよ・・・そんな遠くまで行けるはずないじゃないか」
「行けるわよ!私行ったことがあるもの!」
 海美は強気で言い返す。
「一人で行ったの?」
「ううん。兄さんが連れて行ってくれたの」
 助けを求めてアレンは色々考えたのだが、今日に限って両親は外出しており、海美を止めてくれそうな彼女の母さんも、今現在逃げ出してきている目の前の彼女を見れば意味ないような気がする。
「僕たち2人で行くなんて無理だよ」
「無理じゃない!絶対に行くから。あんたも、一緒よ!!行かないって言ったら、ぶつから!!」
 結局、彼女の剣幕に押されてアレンはしぶしぶ、家出の準備をした。何を持っていっていいのか分からなかったから。去年買ってもらったお出かけ用の鞄に、お気に入りの本を2冊と、ノートを入れた。もしかしたら必要になるかと思って、父さんがくれた方位磁石をポケットの中につっこんだ。反対側のポケットには、大切に溜めておいたお金を入れる。階段から駆け下りる頃には、すっかり焦れて待ちくたびれた海美が、早く早くと急きたてる。
「本当にどうしても行くの?」
 最後にもう一度確かめる。もしかしたら、考えが変わったかもしれないと、ちょっとだけ期待したけれど、彼女は首を横に振った。
「絶対に行くの。もう、ここには帰ってこないんだから!」
 海美は強引にアレンの手を引っ張って家を出た。空は今にも泣き出しそうで、午後にはきっと雨が降るだろうな、とアレンは思った。
「ねぇ、どうして家出なんかするの?」
 外はすっかり濡れそぼって、憂鬱な雨音がバスの天井を鳴らす。黙りこくった海美は、少しだけ顔を上げて、きっとアレンをにらみつけたけれど、すぐにまた呆けたような表情でため息をついた。
「どうしても。だって、そうでもしないと、父さんは私の言うことなんか聞いてくれないんだもの」
「君のお父さん?」
 海美の父さんは日本人で、大きな会社の偉い人だった。海外のあちこちを行ったり来たりしていて、ほとんど家には帰ってこない。だから、いつも海美の家には、母さんと2人の兄さんしかいなかった。何度も彼女の家に遊びに行ったことがあったけれど、アレンは一度も海美の父さんの顔を見たことがなかったのだ。
「帰ってきたの?いつも、帰ってきて欲しいって言ってたじゃないか」
「あんな人。大嫌いだもん!いつも、私たちのことほったらかしにしてるくせに・・・」
 言葉の最後がしぼんで消えてしまった。やっぱり、いつもの海美らしくなかった。一度かっと怒ったら、アレンを殴るか、他の年上の男の子と取っ組み合いをして勝たない限り、海美の気持ちは静まったりしない。母さんともよく喧嘩してるみたいだったし、兄さんたちも海美には手を焼いているみたいだったのに、今日の彼女は、尻尾のなくなった猫みたいに静かだ。気味が悪いくらい。
「アレンはいいよね。父さんも母さんもいつもそばにいて」
 2人を乗せたバスは、山を一つ越えて、静かな海岸線へと向かっていた。前にこの辺りに来たのはいつだったかな、と考える。たぶん、半年くらい前の春だったかな。海美の家族が、近所に越してきて、母さん同士が仲良くなったから、一緒に遊びに行こうと言ったのだと思う。海美はアレンは一つ違いだったけれど、年も近いし、近所には同じくらいの子がいなかったから、仲良くしてあげてね、といわれたのを覚えている。最初は海美のことを大人しそうな子だと思っていた。白いワンピースと着ていて、大きな帽子を海風に取られて追いかけていく姿を覚えている。とっても可愛い子だと思ったのだ。
 ふいに、バスが停車した。どうしたのかな?と思って辺りを見回すと、運転手がここまでだよ、と答えた。見れば、バスの乗客は2人しかいなかった。

 バス停の周りには何もなかった。
 海美が言っていた海もないし、道路に車も見当たらない。頭上から振り降りる雨を遮るものもなかったから、2人ともすぐにびしょ濡れになってしまった。バスの運転手がひどく心配そうに2人を見たけれど、それにいち早く気がついた海美の方が、平然と運転手を無視して歩き出してしまったので、アレンは何も言えないまま、彼女の後を追いかける羽目になった。
 道路の片側は、崖に面していた。たった今越えてきた山だ。その山の向こうに、アレンと海美の家がある。小さな村で、隣街まで少し離れているからとても静かな場所だ。
 反対側は、低い草原が広がっていた。その向こうから、かすかに波の音が聞こえてくる。やっぱり海は近いのだと思うと、だいぶ気が安らいだが、それでも、こんな何もない場所に放り出されたことで、アレンの頭は不安で一杯だった。それでも、海美はどんどんと先に行ってしまう。道路の切れ目から、器用に身体をすり抜けさせて、草原へと降りると、後ろを振り返ることなく歩き始めていた。
「待ってよぉ!」
 慌てて草原へ降りながら、アレンは言う。
 ただ広いだけの草原に道なんてない。足元は濡れた砂が広がっていたから、靴はあっというまに重くなってしまった。海美も同じで、可愛い靴は真っ白になり、そのうち黒くなった。白かった砂だらけだ。それでも構わず彼女は歩いていく。絶対に後ろを振り向かなかったけれど、ちゃんとアレンがついて来ていることは確かめているようだった。だから、アレンは遅れないように、彼女の5歩後ろを歩いた。
 草原はどこまでも続く。その先に本当に海があるのだろうか。
「ねぇ、海美」
「なに?」
「どうしても行くの?」
「どうしても行くの!」
「早く帰らないと、風邪を引いちゃうよ」
「もう、家には帰らないんだから!」
「どうして、家に帰らないの?」
「どうしても!もう!いちいち、うるさいわよ!」
 どうして、海美が海を見たいのか分からない。家出までして見に来なくても、いつでも海なんて見に来れるのに。空は灰色で、雨のせいで濁った海は、あまり綺麗ではないだろう。きっとがっかりするのではないだろうか。
 色々考えたけれど、アレンは結局何も言い出さなかった。何を言っても、きっと海美は聞いてくれないだろう。
 ふいに、草原は終わった。目の前に、広がったのは灰色の海岸線だ。
 いきなり駆け出した海美を追いかけて、アレンも一緒に走り出す。水を含んだ砂に足をとられて、転びそうになりながら、なんとか前を向いて走ることができた。海美を一人で行かせちゃいけないと思った。
 2人はしばらくの間、海に向かって立っていた。ぼぉっと立ち尽くしたまま、何を考えていたのだろうか。ちらりと海美を見たら、泣いているように見えて、アレンはびっくりした。雨のせいでそう見えたのだ、きっと。
「どうして、海を見たかったの?」
 海美の涙を見て見ぬフリをして、アレンは訊いた。
「忘れたくなかったから」
 彼女は小さくそう答えた。
「ずっとここにいたかったから」
 それっきり、また黙ってしまったから、2人は黙ったまま海を見ていた。
 どこまでも灰色で、空を地平線の違いもよく分からない。まるで、世界の果てのようだった。きっとここよりも先に、世界はなくて、一番端っこに2人で立っているのだと思った。体は寒かったし、心細かったし、きっと見つかったら両親にこっぴどく叱られるだろうなとか、怖いなとか、明日になったら海美にまたどやされて殴られて、それでもまた笑ってくれる彼女と一緒に、こうして2人でいられてよかったと思う。
 海美と2人なら、こんな世界の端っこにいても淋しくない。そう思った。

 結局、2人は心配して探しに来た両親に見つかった。
 後から聞いた話では、バスの運転手が心配して、警察に連絡したのだという。最初に聞きつけたのが、海美の母さんで、話を聞いたアレンの両親も飛んで帰ってきたのだ。
 こうして、あっさりとアレンと海美の家出は終わった。
 翌日、案の定、風邪を引いて熱を出したアレンは、今日こそ両親に怒鳴られて怒られるだろうと思っていたけれど、その代わりに、少しだけ淋しそうな顔をして、海美が引っ越すのだと、話してくれた。
 父さんの仕事の都合で、外国へ行くのだそうだ。それが嫌で、海美は家を逃げ出し家出をした。それでも、彼女の言葉は両親には届かず、アレンが風邪で寝込んでいる間に、彼女と彼女の家族はどこかへ旅立ってしまっていた。

 今でも時々、あの海を見に行くことがある。もちろん、雨の日には二度と行きたくない。また風邪を引いて寝込むのはいやだから、大体の場合、ハイスクールの帰りに自転車で遠出をして、バスを追い越しながら海へと向かう。途中の路肩に自転車を預け、草原を向けてあの海を見に行くのだ。
 ついこの前、海美から手紙が届いた。今は、地球の裏側の国にいるらしい。海のない国だから、自分の名前の由来を話すと驚かれると、あいかわらず陽気な文体で書き綴ってくる手紙を、アレンは大切に机にしまっている。
 あれから、一度も海美には会っていないけれど、海を見るときには、いつも隣にいるような気がした。
気が強くて、お転婆で、でも少しだけ泣き虫な海美。
 世界の果ての、その先に居る彼女に、アレンは手紙を送り続けている。