魔女と狼の話

 エルンストが森を降りたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
 どこか近くで爆撃の音が聞こえ、地響きを感じたのは、夕刻。今にも泣き出しそうな灰色の空から、ついに雨が降り始めた頃だった。
 酷い雨の夜で、辺りはしんとしていたけれど、たしかに血の匂いを感じ取り、嫌な予感を胸に木々の間に身を隠しながら慎重に外の様子を伺いに来たのだった。
 ただでさえ怪物が住むと言い伝えられてきた森である。事実獣の姿をしたエルンストにとっては、とても危険なことなのだ。
 人間であったときよりもはるかに夜目が効く瞳を持った彼が、明るく燃える炎を見たのは、森の端よりもかなり奥まったところだった。記憶が正しければ、そこには小さな村があったはずだ。前の戦争の時、その村の近くを通ったような気がする。カーキ色の軍服を着た兵士達に、水と食料を提供してくれた村の人々の顔を今でも覚えている。疲れきり、恐怖に染まった表情は、戦争の時代どこへ行っても見られた顔だった。
 タンタンと銃撃の音が聞こえる。雨の中で酷くくぐもった音だ。近づくにつれ、悲鳴や罵声も聞こえてきた。エルンストは、森を降りてきたことを後悔し始めていた。ここへ来るべきではなかった。人間たちの戦争に関わるべきではないのだ。もう、殺し合いはたくさんだし、立ち上る泥と血と火薬の匂いは、昔の自分を思い出される。多くの兵士達と同様、歩兵ライフル銃を肩に背負い、腰に銃剣を差し、驚くほど重い荷物を背負って行軍していた頃を。
 エルンストは、漆黒のように黒い毛並みに泥水をなすりつけ気配を消すと、そっと森の木々の間から村の様子を覗き見た。
 雨の降るこんな冷たい夜に、燃え盛る炎は熱すぎるほどに闇を照らし出し、逃げ惑う人々の行く手をふさいでは、背後からの銃撃にいくつもの悲鳴があがる。思ったとおり歩兵部隊の兵士が何人か、無差別に村人を殺害しているところだった。おそらく、撤退行動中に本部隊と外れた小隊が、無法者のように手当たり次第に村を襲っては、略奪を繰り返しているのだろう。前の戦争でもよく見た光景だった。ようやく、終戦を迎え落ち着いた世になった矢先に、再び新しい戦争でも始まったのだろうか。
 無差別な虐殺が終わるまでエルンストはじっと森の影の中から一部始終を見つめ続けた。雨は相変わらずひどかったから、略奪も早々に兵士達が立ち去ったあとに残された、累々たる屍を見下ろし、泥と血が交じり合ったどす黒い地面が汚されていくのを見ながら、なにかとてつもない罪悪感を感じた。
 人として生まれ、生き、殺し、獣になった自分が、世界の外から再び戦争を見ているというのは、なんとも滑稽な姿だろう。
 もはやここには用はないと思い、立ち去りかけた時だった。ふいに、子供の泣き声が聞こえたような気がした。最初は雨音がそう聞こえるのだと思ったのだが、しかし確かに子供の声が聞こえる。村の生き残りだろう。運のいい子供もいたものだと思ったけれど、村中が殺され燃やされこんな雨の中に取り残された子供が生き延びられる確立はとても低い。可哀想だが、生き残ったことを後悔するはめになりそうだ。
 人とはもう関わりたくはない。そう思って、踵を返す。が、最悪なことに暗い森の奥に蠢く、野犬の低い唸り声に気づいてしまった。血の匂いに誘われて集まってきたのだろう。もはや誰も死した屍を埋葬できる者は残っていないから、今夜のうちに、野犬どもが貪ることになる。あの子供も、かみ殺されてはらわたを食われることだろう。
 ママ、ママといって泣き叫ぶ子供の声が聞こえる。両親は二度と戻ってこないというのに、助けなど来るはずもなく、待っているのは野犬の群れだけだというのに。
「あぁ・・・クソッ!」
 エルンストは、背を向けた村へと取って返していた。
 大きな体躯から繰り出される脚力は、風の如くあっというまに村へとたどり着き、人の気配がないかを確かめてから、さっと村の中に入り込むと、子供の泣き声を探す。
 外から見ているよりもはるかに凄惨の光景がそこには広がっていた。順番に並ばされて撃たれた後があり、逃げようとした者は背後から容赦なく撃ち殺され、もはや人の形がなくなるまで引きずり回された者もいれば、女達は暴行され、子供達は一箇所の集められ燃やされたようだった。
 声の主は、そうやって殺された母親の死体の下に埋もれて、泥の中に沈んだ少女だった。寒さと孤独のために泣き疲れ、もはや声もあげなくなっていた彼女を見つけたとき、エルンストは一瞬、彼女を助けるかどうかの逡巡に囚われた。こんな子供を一人くらい助けたところで何になるというのか。人を殺すのはいとも容易く、殺されるのは驚くほど呆気ない。偶然助かったとはいえ、彼女の死はもうすぐそばに迫っており、自分に出来ることなどなにもありはしないのではないだろうか。
「だぁれ?」
 ふいに声が聞こえて、はっと我に返ると、自分ではどうにも這い出すことの出来ない死体の下から、少女が見上げていた。
「そこにいるのは、だぁれ?」
 泥に汚れた漆黒の獣を見ても、少女は怖がりもしなかった。
「たすけて・・・とても冷たいの。ここから出してくれる?」
 エルンストは鼻先で少女の上にのしかかった死体をどかしてやった。母親の顔には恐怖と、娘を守ろうとする必死な形相が張り付いたまま、泥に汚れて雨に打たれていた。
 少女がふらふらと立ち上がるのを手助けしてやると、彼女は不思議そうな眼でエルンストを見上げた。
「おおかみさんが、たすけてくれたの?」
「あぁ。そうだ。助けてやったのだから、さっさとどこかへ行った方がいい。もうすぐ、野犬がたくさんやってくるぞ」
「でも・・・ラウラはいくところがないの」
 どこか遠くで野犬の吠え声が聞こえた。びくっと身体を震わせた少女は、反射的にエルンストにすがりつく。雨に打たれていたにも関わらず、不思議なくらいの温かさが、エルンストの肌に伝わった。
「おおかみさん。ラウラといっしょにいて。こわいよぉ・・・」
「おまえを連れてはいけない。オレは、森の奥に帰らなければならないんだ」
 そういったが、少女は頑なに首を振る。
「いっしょにつれていって。おおかみさん。ラウラひとりはいや。さびしいもの」
「一緒には連れていけない!さっさとどこかへ行くんだ!!」
 エルンストが語気鋭く怒鳴ると、語尾が獣の遠吠えのようにくぐもって聞こえた。牙をむき出し、今にも襲い掛かろうといわんばかりの迫力で発した言葉に、少女は驚いてびくっと震えて尻餅をついた。ぽかんと見開いた瞳に恐怖心が宿る。
 所詮は獣なのだから、人の言葉を話そうとも恐れられるのが道理。むしろ、元人間が狼の姿をしていること自体が、魔法の成せる技なのだ。もはや、人とは交われる我が身を省みれば、自分がどれほど愚かだったかと思う。子供など助けて、ささやかな罪悪感を慰めるだけならば、いっそ森を駆け抜けて谷にでも落ちればよかったものを。
 再び野犬の声が聞こえる。確実に距離が近づき、おそらくは村の外を包囲しているころだろう。野犬は死んだ肉も喰うが、それよりも生きている人間を殺すことを好む習性があるから、まず先にこの子供を殺そうとするだろう。泣きながら怯え、行くあても身を守る術も持たない子供を殺すことに、至上の喜びを感じる。人も野犬も似たようなものだ。
 エルンストはため息をついた。自分はもう、子供を助けてしまった。だから、この少女には責任がある。命を救ってやったという責任が。
「おい。死に損ないのガキ。さっさと、オレの背中に乗れ」
「つれてってくれるの?」
 泣きながら問いかけてくる少女に、鼻を鳴らして答え、早く乗るように促してやる。野犬が集まってきたら厄介だ。体の大きさでは負けはしないが、多勢に無勢で戦うことの愚かさなら、嫌というほど知っている。
「ねぇ、おおかみさん」
 少女がぎゅっと首筋の毛を握り締めるのを感じながら、エルンストは最後に滅ぼされた村を振り返った。もう二度とここへは戻ってこないだろう。自分も、背中の上の少女もだ。
「おおかみさんのなまえはなんというの?わたしは、ラウラ」
「エルンストだ」
 言いながら、巨躯の狼は風のように疾駆した。野犬の群れを飛び越え、追いかけるものを振り払い、森の奥へと姿を消した。


 エルンストのねぐらは小高い山の上の古い古い木の根元にある。土の中に張り巡らされた根の一部が腐り落ち、空洞になっていたところに、方々から木の皮や枯葉や毛皮を集めてきて、心地よい寝床にしているのだった。
 山での暮らしは過酷で、食べ物も少なければ、寝床は冷たい。火を使う必要のないエルンストとは違い、まだ幼いラウラのためには、火を使う努力をしなければならなかった。
「火はいや。こわいもの!」
 そういってダダをこねるラウラに、火の起こし方を教えるのは一苦労だった。何しろ、エルンストは狼の姿になって久しく火と起こそうなどと思ったことがなかったし、地を蹴るのには有効な前足では、器用なことはできなかったのだ。
 「凍え死んだらどうする?」とエルンストが言うと、「エルンストがそばに居てくれたらあったかいわ」とラウラは答える。
 「オレと一緒に生肉を食べるつもりなのか?」とエルンストが言うと「エルンストがたべるものなら、私もたべるわ」とラウラは答える。
 ラウラは見かけによらず頑固で、物怖じしない、気丈な子供だったから、小さい子供など育てたこともないエルンストにとっては、厄介な虫のような存在だった。一人で居れば静かに最低限の生活ができたものを、彼の生活は一変してしまったのだ。
 ラウラのために森中から果物や野生の野菜を探すことに専念しなければならなくなったり、寒さを凌ぐために毛皮を集め、自分のために餌を取り、ラウラの話し相手にもなってやった。
 何度子供を麓に捨てに行こうかと思ったことか。彼女が眠っている間に、首根っこを掴んで背中に乗せ、ぱっと駆け下りて、どこかの村にでも置き去りにしてこればいい。村人は驚くだろうが、たとえ森から現れたとしても、人間の子供ならば引き取って育ててくれるだろう。人間の生活に慣れていけば、本当の両親のことも忘れるだろうし、森に住む黒狼のことも忘れてしまうかもしれない。たぶん、それが彼女にとって一番いい人生だろう。もしかしたら、そうすべきだったのかもしれない。
 それでも、エルンストはラウラを麓へ連れて行こうとはしなかった。そばに置いて一緒に暮らすことを選んだ。それは自己満足の成れの果てだったのだろうけれど、長い間たった一人で森の中で暮らしてきたエルンストには、唯一つの救いだったのだ。
「エルンストはあったかいね」
 夜眠るとき、ラウラは決まってそう言った。エルンストの前足の付け根に頭を乗せて、ふわりとした毛並みに身を寄せると、一杯に息を吸い込むのだ。
 血なまぐさいだろうな、とエルンストはいつも思うのだが、ラウラはそれが好きらしかった。
「私、エルンストのこと好きよ」
「あぁ。そうかい」
 少女は面白そうにくすくす笑って、甘えるようにエルンストの前足に触れる。昔は器用に曲がった腕で、そっと抱きしめてやりたいと思うけれど、獣の前足ではそんな芸当到底できない。
「わたしのことたすけてくれたし、狼はこわいいけど、エルンストはこわくないもの」
「いつか怖くなるかもしれないぞ」
 そっと言ってやると、少女は怒ったようにぱっと目を輝かせて、エルンストを見上げた。
「こわくなんてならないもん!ラウラは、ずっとエルンストのそばにいるもん!」
「あぁ。好きにしたらいいさ」
 ラウラの額を舐めると、くすぐったそうに彼女は笑う。それから、幸せそうに顔をエルンストの毛皮に埋めた。
「ねぇ、エルンストはどうして、おおかみなの?」
「さぁな」
 あきらかに眠そうにしている少女の身体が冷えないように、そっと身体で包み込んでやると、ラウラは心地よさそうに身じろぎする。もしも、自分がいなければすぐにでも死んでしまうだろうとても小さな身体。その柔らかい肌を噛み切る事だってできるだろう。自分はどうしてそうしなかったのだろう。
「いつか、エルンストもにんげんに戻れるかしら?」
「さぁ。分からないな・・・」
「戻れたらいいのに」
 すぅと短い息を吐いて、まるで魂が抜けるようにラウラな眠りの中に落ちていった。規則的な呼吸の音が耳に心地よく、土臭く腐り果てた寝床が不思議と暖かく感じられた。
 エルンストもまた目を閉じて、小さなラウラの髪に鼻先を触れる。懐かしい人間の匂いがした。



 全身を襲う痛みにエルンストは叫んでいた。喉が枯れ果て潰れるのではないかというほどの絶叫だったと思う。
 体内から沸き起こってくる得体の知れない痛みと、ボキボキと変形し音を鳴らす骨と、内臓を引き裂かれていく恐怖に身もだえし、雨でぐっしょりと濡れた泥の上をもがき苦しみ、そこから逃れようと必死に叫ぶ。最初は助けを求め、それが訪れないと気がつくと罵声に変わり、最後にはもう何を言っているのか分からなくなっていた。いいや。もしかしたら、もう人の言葉でさえなかったかもしれない。
 いつの間にか彼の声は、獣のそれに変わっていた。泥を掴む自分の手が毛むくじゃらになり、ぞっとするほど爪が伸びていく。耳元が傷み、大音量で金を鳴らしているような頭痛の間に、変形していくのが分かった。背骨が曲がり、足が変形し、体中が変わっていく。
 気持ち悪さに、何もかも吐き出したが、己の体内から何が出てきたのかもわからなかった。きっと、人間には不要なものがすべて口から吐き出されたのだろう。
「くそ!くそぉ!!」
 耳障りなガラガラ声が自分のものだと思うと、恐れおののいた。どうしてこんなことになったか。暗い森の中で、今自分が痛みと恐怖とでのた打ち回っていることなど、まるで遠いどこかの御伽噺のようだった。
 いっそ、どこか近くに転がっているはずのライフルで自分の頭を撃ち抜いてやろうか。たぶんそれが一番いい。手っ取り早く片をつけられるし、これほど苦しむこともなくなるだろう。
 エルンストは、必死になって毛むくじゃらになった手で辺りを彷徨った。さっきまでは持っていたはずなのだ、歩兵隊に支給されるライフル。もう長い間、一緒に生き延びて来た相棒の最後の仕事が、主人を撃ち殺すことなんて、なんとも皮肉めいた話だ。
 ようやく何か硬い者に手が触れた。この手にしっくりと馴染んだライフルの銃握。その先にあるトリガーに指先が触れる。ほっと安心感が広がり、これでこの苦痛から逃れられると思った。
 だが、すぐに気がついたのだ。変形した自分の手では、器用に銃口を自分の頭に当て、トリガーを引くことすら出来ない。その手は物を掴むよりも、地を踏みしめることに適しており、獲物を押さえつけ切り裂くためのものなのだ。
 エルンストは、狼になっていた。
 ふいに、なにかとてつもない衝撃を受けたかのように、体がどぉと倒れた。自分の意思とは関係なく起き上がれない強い力に押さえつけられ、気が遠くなっていく間際。ぼんやりと見つめた森の闇の中に、人影が見えたような気がした。まるで幽霊のように立ち尽くしたそれは女だったと思う。
何か言おうとしたけれど、声は出なかった。真っ暗闇に落下する奇妙な浮遊感だけが、彼を支配していった。
「おまえは、我が最愛の娘を殺した」
 女は厳かな静かな声で淡々と話す。真っ白な髪がなびき、まるで亡霊のように見えた。両手に幼い少女の亡骸を抱きしめ、森の獣の毛皮を羽織ったその姿は、御伽噺の中に現れる魔女のものだった。
「おまえを殺して償わせることは容易いが、それでは足りぬ」
 もう身体を動かすことはできない。意識が遠のいていく間際、エルンストは自分が森の魔女の呪いに掛けられたのだと思い出した。
 そうだ、行軍の途中、立ち寄った村を襲った略奪の場で、誤って魔女の娘を殺してしまったのだ。その子はラウラによく似ていて、エルンストが銃口を向けても抵抗さえしなかった、静かに微笑みじっと彼を見つめていた。その眼が恐ろしくなり、彼は人生最後の銃弾を撃ったのだ。
 これは夢だ。夢の中ででも、痛みというものは鮮明に思い出せるものなのだな、と感心する。そう思ったら、体中の痛みが少しは和らいでいくような気がした。
「地を這いながら殺し続ければいい。それ以外のことは許されぬ。おまえはもはや人でもない。獣としていきなければ、死が待っていることだろう」
 たとえ生きていたとしても、獣の姿でなんになるというのか。遠くなっていく魔女の言葉を聞きながらエルンストは思う。殺す以外に許されぬわが身で、何ができるのだろう。こうして夢を見ることだろうか。寒い冬の夜に、ラウラを抱いて眠ることだろうか。もしそれで、この命が尽きるのならばなんと甘美な夢だろう。


 ばぁんという鈍い爆撃の音で眼が覚めた。
 はっとして起き上がった拍子に体の上にいたラウラを落としてしまい、少女は寝ぼけた涙目で眼を覚ます。
「エルンスト・・・?なぁに?」
 再び爆撃。さっきよりも近い。
 エルンストを身を起こし、まだ寝ぼけているラウラをその場に置いてねぐらの外へ出た。辺りはまだ暗く夜明け前の冷たい空気が鼻先を掠める。東の空がかすかに白いから、もう2、3時間すれば日が昇るだろう。
 ねぐらから森を見下ろすと、木々の影の中でちらちらと動く光が見えた。火。松明だ。耳を澄ませばかすかに人の声も聞こえる。
 爆撃が立て続けに2回。一瞬ぱっと明るくなった森の中で、こちらにむかって進軍してくる兵団をエルンストは見た。かつて自分が所属していた友軍だということが分かる。だが、一体誰が自分を受け入れるだろう。人ではない狼の姿をした自分は、彼らにとっては森の獣だ。
「どうして、こんなところに軍隊が・・・」
 戦局がどうなっているのかなどエルンストが知る由もないが、この黒い森が敵軍との国境付近に広がっていることくらいは昔の知識で知っている。古くから魔物が住むと恐れられていたから、たとえ軍隊といえども、やすやすと越えようとはしなかった深い森なのだ。そこを行軍してくるということは、よほど切迫しての選択か。敵の不意をつくつもりなのか。とにかく、この森を軍隊が蹂躙していくことは間違いなく、運悪くその行軍に気がつかなかったエルンストたちは、森のど真ん中に取り残されたのだ。
 ねぐらの背後は切り立った崖だから、そちらに逃げ道はない。火気を持った軍隊はもうすぐそこまで近づいており、いくら夜闇の中とはいえ、狼と少女が見つかるのは時間の問題だ。
 エルンストは迷うことなくねぐらへ取って返した。人殺しの兵隊達から逃げなければ。ここではないどこか遠くへ。人間達に見つかれば、獣であるエルンストは殺され、一人残されるラウラが生きていけるとは思えない。
「ラウラ。逃げるぞ」
 立て続けの爆撃の音でもうすっかり眼を覚ましたらしいラウラは、怯えた様子で身体を丸めていた。エルンストの姿を確認するや、わっと泣き出して飛びつくと、がたがたと震え始める。無理もない。同じように自分の村を襲われたのだ。同じ恐怖が目前まで迫ってきている。
「エルンスト・・・こわいよぉ・・・」
「大丈夫だ。オレがついてる」
 優しい言葉をかけてやると、少女は泣きながら頷いた。自分の口からそんな穏やかな言葉が出てくることが意外だった。
「ラウラだけおいていかないよね?」
「あぁ。しっかり掴まってろよ」
 ラウラは、震える手でエルンストの背によじ登ると、しっかりの彼の首にしがみ付いた。
「絶対に離すなよ」
 ねぐらの穴からゆらりと姿を現したエルンストの姿に、兵隊達も気がついたのだろう。いっせいに動揺が広まっていくのを高見で見物しながら、大狼は高く天に吠えた。朗々と森に響き渡る咆哮に、兵隊達は恐れおののき、手元が危うく震えたことだろう。
 だっと大狼が駆け出すのと同時、小編隊を組んだ隊列からライフルが発射される。冷静な司令官の指揮の下、動揺は一瞬で治まったらしい。有能な指揮官もいたものだ。
 弾丸が飛び交う森の木々の間を縫い、疾駆した大狼は迷うことなく兵隊の隊列の中へと突っ込んでいった。最初に引き倒した年若い兵隊は爪で引き裂き、その隣にいた者は牙でかみ殺した。いっせいに上がる悲鳴。その逞しい体躯では想像もつかない素早さで隊列を乱し、兵隊を殺した大狼は、背中にラウラの小さな身体を乗せたままぱっと飛び、そのまま行軍の列を飛び越えた。
「逃がすな!!」
 どこか遠くで怒号の声が聞こえる。そのまま放っておいてくれればいいものを。
 隊列のど真ん中で止まった大狼は、周りをぐるりと囲もうとする兵隊に次々と襲いかかる。首元を噛み砕き、脇腹を刺し貫く、巨躯ゆえの重みでのしかかれば、非力な人間などあっというまに地に伏せて、何本か骨の折れる感触が伝わってくる。加えて深い森の奥の足場の悪さも手伝って、反撃の隙もない兵隊をなぎ払うのは容易いことだった。
 ふいに後ろ足に痛みが走る。見れば、たった今なぎ倒したと思った奴が、最後の力を振り絞って短剣を狼の後ろ足に突きたてていた。憎しみを込めてそいつを蹴り殺すと、再び走り出す。
 隊列を蹴散らし、立ちはだかる者をなぎ払い。エルンストは走った。
 背後から続く銃撃の音を聞きながら、ラウラが無事であることだけを確かめる。右の後ろ足が痛い。立て続けの銃撃が、体を刺し貫いた。首の近くに掠った衝撃で危うく倒れそうになるのを踏ん張り、なんとか足を前に出す。体中が痛い。それでも血しぶきが上がるのも構わず、エルンストは疾駆する。
 逃げなければ。ラウラをつれて逃げなければ。彼女を守らなければならない。自分が救った小さな命だけれど、彼女をラウラを、我が娘を守らなければならない。
 明けかけた白い空の中を、エルンストは果てしなく走り逃げた。どこまで逃げればいいだろう。どこまで行けば安全だろう。知らない間にラウラは動かなくなっていた。温かみが増しているから、眠ってしまったのだろう。その方がいい、彼女が眠っている間に、どこか遠くにまで行こう。
 どぉっとバランスを崩してエルンストが倒れると同時に、彼は一瞬気を失った。あの世とこの世を行き来する短い時間、彼を引き戻したのはラウラの泣き声だった。
 突然地面に投げ出されてころころと転がったラウラは、両手足を擦り剥いた痛みで、泣き出していた。初めて彼女を助けたあの雨の日の夜と同じ、必死に助けを求める声で。
「ラウラ。ラウラ・・・」
 どうにか鈍い頭を動かし、重い身体を持ち上げる。
 漆黒だった毛並みは、血の色を加えどす黒くなっていた。首筋の少し下から止め処もなく血が流れ落ち、倒れたその場所に小さな血溜まりができている。
「ラウラ。もう泣くな・・・もう大丈夫だから。嫌な奴らはどこか遠くへ行ってしまったよ」
 転んだ拍子にあちこちケガはしていたが、ラウラには大きな傷もなさそうだった。
「ねぇ・・・エルンスト。どうしたの?」
 頼りなくよろめき自力でも立っていられないエルンストに、自分のケガのことなど忘れてラウラは駆け寄りそっと支える。
「ケガしたの?どこかいたいの?」
「大丈夫だよ。大したことない」
 そうはいったが、身体は言うことを聞かなかった。どうにかよろよろと頼りない足で近くの木の幹に身体を横たえてみたものの、もうそれ以上動ける気がしなかった。出血が多く、たぶん、大量に流して痕跡を残したまま走ってきている。もしも、その気があるのならば、さきほどの兵隊達がこぞってエルンストを追ってくるだろう。
 逃げなければ、と頭では思う。この身体が動くのならば、ラウラをつれてどこまででも走っていくだろうに。その身体は言うことを聞かない。体中が冷たく、命が抜けていくのを感じた。
「エルンスト。いやよ、わたしだけおいていかないよね?ずっと一緒にいてくれるよね」
「あぁ・・・」
 ぎゅっと、彼の体を抱きしめるラウラの温かみが唯一の救いのようだった。
 その金色の髪をくすぐるように鼻先で確かめ、頬を舐めてやる。大泣きしていたし、泥だらけの顔はくしゃくしゃだったが、それでもくすぐったそうに笑う彼女を見ていると、何よりもほっとした。
 あぁ、彼女を失いたくないと思うのは、親心に似ているのだろうか。娘を殺された悲しみに、殺人者を狼に変えてしまった魔女も、こんな気持ちだったろうか。それならば、さぞや悲しかったことだろう。
「ラウラ。ラウラ・・・」
 首元にしがみ付いてくる少女を抱きしめられないその腕が、初めてもどかしく思った。人間でなくなったことを恨みも後悔もすることはなかったのに、初めて、彼女を抱きしめて守ってやりたいと思った。それも適わない願いだったが、少しずつ遠くなっていく意識の中で、エルンストは思う。
 どうか慈悲を。ラウラを護って欲しい。森の魔女よ。オレはおまえの娘を殺したことを悔いている。そう願うのはおこがましいけれど、どうかオレの娘を護って欲しい。彼女の小さな身体を抱きしめ、兵器を持った人間たちから遠ざけて欲しい。この命に代えて償えるのならば、どうかオレの願いを聞き入れてくれ。
「エルンスト?ねぇ、へんじしてよ」
 ラウラの問いに、エルンストはもう答えなかった。


 どこか遠くで、兵隊達の軍靴の音が聞こえたけれど、彼女は気にとめた様子もなく森を渡ってきた。朝焼けの霧の中、真っ白な髪が風になびき、いくつもの獣の毛皮を纏った姿は、人ならざる者に見える。その表情は厳しく、怒りにも悲しみにも見えたけれど、アイスブルーの瞳はまっすぐに倒れ伏した一人の男を見つめていた。
「ラウラ」
 死んだ男の傍らで泣きじゃくっていた少女は、ふと顔を上げて、彼女を見た。髪の色も眼の色もまったく違っていたけれど、自分とよく似た顔立ちのその女性のことを、ラウラは知っているような気がした。
「こっちへいらっしゃい。もう、その人は死んでしまったわ」
 ラウラは、おずおずと立ち上がると、朝靄の中に立つ魔女と、死んだ男とを見比べる。
 黒い髪と痩せ細った体。古いボロボロの軍服を着ており、右足の銃創が生々しく残っている。この人は、自分の本当の母親と同じように悪い兵隊に撃たれて死んだのだ、とラウラには理解できた。きっと、自分を守って死んでしまったのだろう。
「エルンストは?」
「彼は、自分の世界に戻ったのよ。だから安心して、こっちへいらっしゃい」
 魔女に手招きされるがまま、ラウラは死んだ男から離れ、涙でくしゃくしゃになった顔を拭った。こびりついていた自分のではない血が、ぱりぱりと剥がれ落ちるそれを見つめて、その血を流した人のことを思う。
「あなたはだぁれ?」
「エルンストと同じね。この森に住んでいるのよ。あなたのことを守るようにと、彼が最後に言い残したので、ラウラ、あなたを迎えに来たわ。私と一緒に行きましょう」
 差し出された手を握るのに躊躇することなど少女は知らず、それ以外の選択を魔女は与えなかった。
「あの人は?」
 とても冷たい魔女の手を握り締め、さっと踵を返す彼女とともに歩き出しながらラウラは、死んだ男を振り返り見る。なぜだろう。見も知らないその男のことを、どこかで知っているような気がしたのだ。
「あぁ・・・もうすぐ、兵隊達がやってきて、彼を葬ってくれるわ。大丈夫よ。あの人はもう死んでしまったのだから」
 たくさんの銃弾を受けボロボロになって、それでもラウラを守ろうとした男の亡骸は、森の中にぽつんと淋しく横たわり、この世のものとは思えない静けさに包まれていた。
 どこか遠くで軍靴の音が聞こえる。
 ラウラは、何度も何度もその姿を振り返り見ながら、心の中でさようなら、と言った。守ってくれてありがとう。さようなら。さようなら。さようなら。優しい人。