終末世界にて
1.飛竜に乗った少女
「タウ。風が変わるぞ」
ミストが言う。飛行帽越しに聞くと、もとからの嗄れ声がさらに聞き取りつらかった。
「西へ?」
「いいや。北だ。もうすぐ季節が変わる」
タウは、飛竜の手綱を引いて風を頬にあてるようにして飛び始めた。乾いていた風には、うっすらと湿気が含まれ、冷たい冬の風に変わりつつあった。
「もう今日は降りよう。あまり冷えると凍えてしまう」
タウは、首の長い飛竜の赤く硬い鱗を撫でてやった。金色の眼をふと主人に向けて、ミストは答えるように声を上げる。
タウと飛竜のミストは、岩だらけの荒野の中に降り立ち、今夜の野宿場所を見つけた。真っ二つに割れた岩の間の狭い影の中だ。
どう仲たがいしたものか、元は一つであった岩は今はもう、二度と戻ることのないほど決定的に割れてしまっていた。大きな星が降ってきたのだろうとミストは言ったけれど、タウは逆だと思った。共に落ちてきた星が、地の上で割れてしまったのだ。きっと。
ミストの背にくくりつけている、寝袋を下ろし冷たい石の上に引くだけで、タウの寝床は出来上がった。とても簡素で質素なその場所が、彼女の一番安心できる場所だ。近くにミストもいるし、焚き火をたけば温かい。
岩の間をひんやりした風が吹きぬけていく。
「はぁ、よく冷えた風だの。今年は、冷たい冬になりそうだ」
がらがらとなる耳障りな声で、ミストがつぶやく。
タウは、手のひらほどの黒い石に火をつけると、ぽいと地面に捨てた。火種石は荒野だらけのこの地上での旅には欠かせない。辺りから拾ってきた枯れ草や、からからに干からびた木材などを石の上に投げて乗せれば、あっという間に焚き火が燃え上がった。
「これ以上、北へは飛べないね。ミストは寒がりだから」
ようやく燃え上がった火の温かさに寄ってきた飛竜が、力いっぱい同意するように喉を鳴らした。肩に掛けた鞍をはずされ、くつろいだ様子で火のそばに身を丸める。寒さは、彼の翼を鈍らせ苦しめるものなのだ。
「次はどこへ行くつもりだね?タウ。もうずいぶん長い間飛んでいるよ。まだ見ぬものはどちらの方角にあると思うかね?」
「うん・・・」
焚き火の前に座り、タウは大切に持ち歩いている地図を取り出した。それは、半透明な薄いガラスのような紙で、光の点と線を立体に浮かび上がらせる。一つ一つを結んでいくと地形が現れ、さらにタウが書き込んだポイントには、小さく注釈が加えられていた。彼女は、今自分達が座っている『仲たがいの岩』の場所に、永遠の別離と書き込んだ。
「次は東へ行ってみよう。まだ行ったことがない場所があるかもしれない」
「東か・・・ふむ。そちらなら、まだ冬も訪れてはいないだろうな」
地図を東の方角へ向ける。まだそこにはタウが書き込んでいない空白の地域が続いていた。
ふと空を見上げると、岩の間からちらちらと見える星の間に、半分欠けた白い月が見えた。砕けた月から零れ落ちる、キラキラと輝く小さな星たちが、夜闇を突き刺して降り注ぐ様を見上げながら、タウはふと故郷を思う。
夜空のなかをキラキラと落ちてくる星と同じように、タウの故郷も落ちた。天から地へ。この星と囚われているものは、いつか必ず落ちるものなのだ。
「ねぇ、ミスト。またお話をしてよ」
「またかね。おまえは、何度同じ話を語らせる?」
「いいじゃない。私、あなたのお話が好きだもの」
寝物語をせがむには、ずいぶん大人びているタウの、しかし期待に満ちた眼差しに、ミストは深いため息をついた。
「幸いにも、わしも話すのが好きな性質だからの。語れる相手がおるというのは、また楽しいことだ」
この荒廃した地上で一番長生きしてきた生き物の、昔語り。ぱちぱちと音を立てて燃える焚き火のそばに腰を下ろし、鼻を鳴らして大きく息をすると、ミストは低く心地よい声で語り始めた。
「昔々。まだ世界が若く、豊かであった時代。天を行く人々と、地を這う人々がおったそうだ・・・・」
2.雨が降る
その日は、雨が降っていた。
ミストは地面の低い所をまっすぐに飛び、タウは飛行帽の上にローブを着込んで冷たい雨に耐えていた。すっかり濡れそぼったローブは重く、体にまとわりつくように湿っぽい。もう何日も降り続いているのだ。
この地上に来て初めて、雨というものを知った彼女は、この雨が嫌いだった。冷たいし、寒いし、ひりひりする。
ミストの話によれば、昔々、この世界の空気中に毒を放った人々がいて、決して消えることのないその毒は、水に混じったまま、繰り返し繰り返し地に降り注いでは、大地の中に蓄積されていくのだそうだ。そうして、どこかで湧き出したその水は、再び蒸発して、雲になり、また雨となって降り注ぐ。
繰り返し、繰り返し。毒の雨にはきりがないのだ。
薄暗い視界の中で、ふと眼を上げたタウは、けぶる景色の中にうっすらと影が横切っていくのを見た。
「ねぇ、ミスト・・・」
「私に話しかけるな。雨は嫌いだ」
ミストは、金色の瞳をしばたたかせながら、至極嫌そうに首を振った。
低空飛行を保ったまま、タウはじっと横切っていく影に眼を凝らした。雨で掠れていなければ、その大きさをはっきりと見ることができただろうが、遠く離れていてはよく分からない。大きな頭を雲の中に突き上げ、細くうねうねと動く足が、無数に地を張っている。それほどの大きさならば、地を踏みしめる音が聞こえてもよさそうなものなのに、雨のせいか、もともと足音を立てない者なのか、音はなく静かだった。
「樹だ」
目があるわけではない、口や鼻があるわけでもない。ましては耳さえない。あるのは、天を覆い隠すような枝と生い茂る緑と、途方もなく太い幹。それと、その総てを支える根だけだ。
「樹が歩いていくわ。ミスト」
「綺麗な水を探しているんだろうさ」
ミストはそっけなく答えた。
「樹でなくても、綺麗な水を探すのは難しい。毒を飲み続けたら、わしらだって死んでしまうのがオチだ。しかしな」
歩く樹はゆっくりと雨の平野を渡り、霧の中へと消えていく。タウはじっと樹を見つめて見送った。
「不思議なことに、あれらは毒の水をも飲み込んでいる。アレだけでかいのだ、毒でも飲まなければ生きてはいけんのさ。それを体内で循環させ、体の一部を腐らせて浄化しておるんだよ。腐った所は枯れて崩れていくが、体が大きいからちょっとやそっとでは倒れたりしないのさ」
タウはもう一度空を見上げてみた、空は灰色の雲に覆われていて、日が当たらない大地は寒い。毒の水は降り注ぎ、地を汚していくけれど、いつかその水は癒されることがあるのだろうか。
もしもいつか、たくさんの綺麗な水を見つけて、もしもそこで暮らすことが出来れば、樹は再び大地に生えて定住するのだろうか。
いつかそんな日がくればいいと思いながら、タウは手綱を引き、雨の中を少しだけ高度を上げた。
3.時の塔
目の前に塔が見えた。
眼下に広がる金色の砂漠の中に立ちはだかる壮麗なその塔は、巨人が投げた槍が地に付き刺さっているかのようだった。
「ミスト。あれはなに?」
飛竜は首を揺らしながら、眼を細めて塔を見つめる。
「あれは、大昔の船だの。おそらくは、この世界よりも古い。まだ、地上に人間が暮らしていた頃のものだろう」
「星と一緒に落ちてきたの?」
「いいや。もっと前にダメになったのだろう。砂に埋もれたのだ」
タウは手綱を引いて、塔の方へと飛んでいった。
塔は遠くで見るよりもずっと大きかった。見たこともない青っぽい金属でできており、てっぺんを何かで切り落とされたかのように、鋭く天を刺している。
ミストの翼を操り、塔の周りを一周してみると塔は所々崩れ落ちており、すでに正常な形を保てないようだった。上からぐるりと見回してみれば、ずっと前に塔から崩れた残骸が、砂の上にさらに突き刺さり、塔の周りはまるで、金属片の森のような有様だ。
「何か音が聞こえない?」
「なんじゃと?」
彼には聞こえているのだろうか。かすかな規則正しい音。コツコツコツコツ。それはたしかに、塔の内部から聞こえてくるような気がする。
「あそこに降りてみて、ミスト」
手綱を引いて、塔へ近づこうとすると、ミストはぐっと首を大きく振った。
「やめたほうがいい」
脆くなっている塔の一部に降りるのは危険なこととは分かっていた。けれど、その場所は安定しているように見えたし、巨躯を誇るミストが降り立つにも充分な広さがある、塔の中核にある停空所に見えた。
ミストが嫌がるのも聞かずに、タウは飛竜を広場へと降下させた。ミストは今すぐにでも飛び立ちたい気持ちを示そうと、大きく羽をバタつかせたが、タウは聞く耳を持たなかった。
「長居はしない方がよい。ここは嫌な感じがする」
タウは、目の前の塔を見上げた。
コツコツコツコツコツコツコツコツ。たしかに音は聞こえる。
「何の音だろう?」
「時を刻む音のように聞こえる」
ミストは、喉を鳴らした。タウよりもずっと長生きで物知りなミストは、時々、とてもとても古い記憶を思い出すことがある。彼は、まだこの世界が生きていた頃のことを覚えているのだ。
「時に音があるなんて知らなかった」
「昔は、音をつけていたのさ。人間は、自分の目や耳や手で感じられないものを恐れてたからな」
コツコツコツコツコツコツコツコツ。
塔の壁に耳をあて、じっと時の音を聞く。
コツコツコツコツコツコツコツコツ・・・。
それは規則正しく、一欠片の狂いもなく繰り返されていく。タウは薄い金属で作った短剣を腰のベルトから引き抜き、塔の壁を叩いてみた。鈍い音が響き渡り、塔全体が痺れるように広がっていく。どこかで錆び腐り落ちる病んだ音がする。
カツカツカツカツカツカツカツカツ。
時の音をまねるように、壁を叩く。胸が悪くなるような嫌な音が、時の音に重なって聞こえる。
カツコツカツコツカツコツカツコツ。
突然、地響きが起こった。がたんと足場が傾き、一瞬タウはその場に転がった。危うく転がり落ちるところを、なんとか足場にしがみ付いて凌いだ。地震?塔の崩壊?目の前で、危険を察知したミストがいち早く飛び立つのを認め、タウは這うようにして必死にその背にしがみ付いた。
「塔が崩れるぞ。タウ」
瞬く間に塔を離脱したミストに乗ったタウは、塔が飛び立つのを見た。飛び立ったのだ。
砂に埋もれていた底部から火を吹き、重苦しくまとわりつく星の砂を撒き散らして塔は天へと突き出した身体を浮き上がらせていく。ゆっくりと、驚くほど確実な動作。巨人が放った槍が、ついに主人の下へ帰ろうとしているかのようだった。
塔は、明るい炎を燃やしてあっというまに天へと駆け上り、眩き光を放ちながら落ちていった。