終末世界にて・2

1.まだ見ぬ空の色

 ヒーロが村を出て行くと言った時、大人たちは誰も驚かなかったけれど、皆が反対した。
 暗い土の下に広がる暗闇の村には男手が必要だし、女達を守ってやらなければならない。年頃のヒーロにも近いうちに、結婚相手が決まるはずだったし、屈強な体と強い意志を持ったヒーロの子供が生まれれば、村の存続を支える礎になるだろうと、誰もが期待していたのだ。
 しかし、一方では、この若者がいつか閉鎖的な村を捨てて行くだろうという諦めがあったのも事実で、村中の誰よりも外の世界に憧れ、空の色に焦がれた男を止めることはできないと誰もが分かっていたのだ。
「盲いのばばあの入れ知恵か!」
 厳しい口調で問い詰める大人に対して、ヒーロは静かに首を振った。
「村を出て行くのは、オレの意志だ」
 小さいときから決めていた。いつか、村を出て地上へ行くことを。
 彼の両親は、間違った水を飲んだために死んだ。まだ幼かったヒーロ自身も危うく死に掛けた。いっそ死んでいればよかったのに、とあからさまな侮蔑をこめて呟く隣人は多く、そのたびにヒーロは顔中に傷を作って育った。育ての親は何人も変わり、そのたびにいい思いはしなかった。唯一彼を可愛がってくれたのは、眼の見えない年寄りのばばあだけだった。盲しいのばばあは昔地上へ行った空を見たことがあるのだと話してくれた。それはヒーロの瞳と同じ色をしていて、無限に広がりどこまで行っても途切れることはないのだという。その地上で、ばばあは眼を失ったけれど、地上へ行ったことを後悔はしていないと言った。もしできることならば、もう一度地上へ行ってみたいと。盲しいのばばあが死んだ頃には、ヒーロはもう一人前の男に成長していた。彼は大人たちが望むような従順さは持ち合わせていなかったけれど、気は強く屈強であったし、一人で生きていく手段は心得ていた。
「オレが出て行けば、一人分の食料が必要なくなるじゃないか」
「そんな言い分、認められるわけがないだろう!」
 村の屈強な大人たちが一様に反対するのは予想していた。地上を失い、固い岩盤を掘り土と岩の間に暮らすようになって以来、困窮した生活の中で、どれほど男手が貴重であるかということもヒーロはよく理解していた。男達は、居住区を増やすために日夜穴を掘り、岩を砕かねばならない。
「外へ出たからといって、何もありはしないぞ」
「それでも行く。オレは見て見たいんだ」
「一体何も見る?外にあるのは、生き物を育まぬ不毛な大地と、無慈悲な風と、燃え盛る火だけだ。人を食らう恐ろしい怪物も住むという。外へ出て行ったとしても、みすみすその命を捨てに行くようなものだ!」
「誰がそれを見た?誰が、確かめたんだ?誰も見たことがないものを恐れてばかりでは、生きてはいけない。いずれ、この土の中でだって暮らせなくなるのは明白じゃないか!年々水は少なくなっているし、食べ物だって常に不足している。人口が減り続けているのは、それだけ養えなくなっているからじゃないか!」
 ヒーロの主張に、大人たちは言葉を噤み、苦い顔をした。事実は明白なのだ。村の秩序を司る大人たちのみならず、村の未来に希望がないのは誰もが知るところだ。しかし、村を出て行く勇気がある者もヒーロ以外にはいない。地上を失って以来、人は心底臆病な生き物になってしまったのだから。
「わしらには、この村の他に生きていける場所はない」
 村の最長老である老人が進み出て、厳かにつぶやいた。髪の半分は白髪だが、盲しいのばばあの半分も生きてはいない老人が、今はこの村の最長寿なのは、住民の寿命がどんどん短くなっているからだ。どれだけ、綺麗な水を飲んでいても、含まれた毒を消すことはできず、体の中に蓄積されて、命を削り取っていくのだ。それでも、この場所に固執する大人たちの思想が理解できず、ヒーロは険しい顔で最長老を睨みつけた。
「おまえが出て行くというのならば、出て行けばいい。しかし、二度とここへは戻らぬように。おまえは故郷を捨てて出て行くのだ」
「あぁ。構わない」
 どうせ、残していくものもない。名残惜しむものもない。自分を育てたのは土だ。かび臭く湿っていて冷たい土に育てられた。故郷に背を向けることは容易かった。前を見て歩き出すことに後悔はない。
 無限のように続く階段を昇りきり、堅く閉ざされた扉を開いたとき、ヒーロは生まれて初めて地上へ出た。
 そこには何もなかった。壁も天井も、狭い部屋も、細い通路も、暗い闇も、息苦しい匂いも、他人の汗臭い体温も、かび臭い食べ物も、吐き気のする水も、何もない。ただ、押しつぶされそうな青い色。空の色。風と、雲と。あとは何もない。何もない場所で、ヒーロは地面に寝転がり呆然とした。
 空は青い。青という色をはじめてみたけれど、きっとそれが青なのだろうと思った。空、青い空。これが、故郷の色だ。新しい、故郷の色は青。生きていく場所はこの空の下だ。


2.砂嵐の出会い

 酷い砂嵐にあった。
 それがあまりに強い嵐だったから、前へ進むことも後ろへ引き返すことも出来ず、ヒーロは近くの岩場に身を隠すことにした。
 しかし、そこには先客がいた。
 グルルと鋭い威嚇の牙ををむき出しにして喉を鳴らしたのは、サンドキャットだった。ヒーロの腰の高さほどの大きさにまで成長するサンドキャットは、荒野の砂漠の優秀な狩人であり、弱い生き物は総て彼らの餌となる。もちろん人も含まれているようで、地上へ出てきて数ヶ月の間に、ヒーロはサンドキャットの恐ろしさを嫌というほど見てきた。砂に埋もれた頭蓋骨には決まってサンドキャットの鋭い牙の後が見受けられる。自分以外に地上を旅する者がかつていたことを示されることは嬉しかったが、同胞がサンドキャットに食われた名残を見つけるのは気持ちのいいことではない。
 しかし、岩場のサンドキャットは、威嚇の姿勢をとったものの、ヒーロを襲うようなことはなかった。前足で立ち上がろうとはするのだが、下半身がだらりと垂れ下がり立ち上がれない様子。どうやら怪我を負っているらしい。仲間同士で殺し合いでもしたのだろうか。
「困ったときはお互い様だろ」
 図々しくも岩場に居座るヒーロにサンドキャットは、警戒を解くつもりはないようだったが、いきなり襲い掛かる気力はないらしく、そのまま不自由な身体を横たえた。奥からミィミィと小さな声が聞こえてくる。どうやら、子供がいるらしい。
 砂嵐は相変わらず治まる気配はない。風に舞う砂が日焼けした頬に当たって、ひりひりと痛む。地上の世界は過酷だ。雨が降り、嵐が到来し、砂が舞う。綺麗な水を見つけるのも一苦労だし、食べ物となればさらに苦労は増す。それでも、村にいた頃よりは多彩なものを口に入れているから、最近では腹も強くなったと思う。ヒーロの身体は少しずつ地上に慣れてきているのだ。
 砂嵐の中に、ザリザリという奇妙な音が混じり始めたのに気がついたのも、そうした地上での生活で慣れてきた聴覚のおかげだった。
 サンドキャットもまたぴくりと耳を立て、しきりに唸り声を上げている。ザリザリという音は、徐々に近づいてくるようだった。何事かと思い、岩場からかすかに外を覗き見てると、目の前が真っ黒い変色していくのを見た。
「黒虫だ!!」
 叫んだときにはもう、黒虫の大群は岩場に飛び込んできていた。ヒーロは慌ててローブを脱ぎ捨てると、それを盾代わりにして奥へと飛びのく。ローブを振り払い、ゴマ粒ほどの大きさの黒虫を叩き落とした。しかし、立った一振りでローブが真っ黒になるほどの黒虫を殺すことができても、それ以上の数の大群がヒーロとサンドキャットの母子に襲い掛かってくる。
「くそっ!」
 この忌々しい小型食肉昆虫も、地上に来て知った天敵だ。固体は小さいけれど、圧倒的な大群で襲われれば、人もサンドキャットもひとたまりもない。ヒーロは動けないサンドキャットを庇うようにローブを払い、どうにか黒虫を追い払おうと勤めるけれど、盾を突破した虫は次々と薄い皮膚に食いついてくる。これではきりがない。どうにか、岩場から逃げ出さなければ。
 ふと見ると、サンドキャットの母親の足の下に、小さな仔猫が怯えた声を上げている。ヒーロは反射的に仔猫を自分の懐の中に押し込んだ。
「逃げろ!!」
 サンドキャットの母親は、不自由な足を引きずりながらも必死に応戦していた。しかし、彼女が助からないのは明白で、彼女自身諦めに似た最後の足掻きとばかりに、身を躍らせヒーロの前に出る。一瞬、鋭い赤色の目を彼に投げて寄越した母猫は、ヒーロの言葉をそのまま返したようだった。逃げろと。仔猫を連れて逃げろと。
 ヒーロはローブで身体を覆うと、そのまま岩場を逃れた。まとわりつく黒虫を払い、最後に振り返って見たのは、真っ黒に虫に覆われ行きながらに喰われていくサンドキャットの母親の姿だけだった。
 砂嵐が去った後の砂漠はいつもどおり静かで、どこか遠くで黒虫のザリザリと動く音が聞こえたけれど、ヒーロは気にも留めずに走り続ける。服の上着の中で、サンドキャットの仔猫が悲しげな声を上げた。きっと母親の死を理解しているのだろう。
 不思議なことに、ヒトも獣も等しく自分の子供を愛するのは変わりないのだろう。ヒーロは、久しく思い出したこともなかったかすかな母親の記憶を思いながら、仔猫とともに岩場を離れた。


3.眠りの塔

 砂の丘をフイが飛び出していく。
 時々、サンドキャットの俊敏な足には驚くことがある。何の前ぶれもなく飛び出していった彼女は、砂の上で丸まっていた砂熊の鼻先を鋭い牙で捕まえると、砂の上にたたきつけ、振り回してあっという間に殺してしまう。
 戻ってきたときには、満足そうに獲物を銜えて、褒めてくれといわんばかりに身を摺り寄せてくる。図体ばかりはでかいのに、中身はまだまだ子供だなと思いながら、頭を撫でてやると、すっかり悦に入った彼女は、さっさと食事に取り掛かる。
 どうやら、この辺りで休憩することになりそうだと思い、ヒーロは肩に掛けている荷物を下に落とした。
「フイ。レディが血まみれなんてみっともないぞ」
 砂熊を貪り食うサンドキャットに一言言いつつ、自分も水を一口飲む。サンドキャットが見つけてくれる水は、村で飲んでいた水よりもずっと美味い。泥臭くもないし、甘い匂いがする。
 最初に比べれば狩りも楽になった。ヒーロよりもはるかに腕のいい相棒がいるし、恐らくは獲物が多い地域に入ったのだろう。土の中から外に出てみて分かったことだが、地上には思っていたよりも多彩な生き物が生存している。荒野の捕食者であるサンドキャットがいれば、彼らに食われる小動物もいる。虫や蛇を見ることもあるし、植物だって根を張っている。見ないのは人だけだった。ヒーロは、地上に出て以来、一人も生きた人間に出会っていない。
「あの村が最後の生き残りなんだろうか?」
 ヒーロの問いに、血まみれの口元を舐めながらフイが顔を上げる。もしも彼女がいなければ、ヒーロはとっくの昔に気が狂っていただろう。孤独は人を狂わせる。この地上にはともに話せる相手は一人もいないのだから。
 はたと気がついて目を凝らす。視界の端にきらりと光ものが映り、ヒーロはどきりとした。なんだろう。興味を引かれて立ち上がる彼の後ろに、フイも続く。
 砂の真ん中に突き出していたのは、金属の棒だった。太さは手首ほどで、地面から30センチほどが頭を突き出している。その下はどうなっているのか。何度か蹴ってみても棒はびくともしない。
「なんでもない。ただの棒だな。フイ。もう行こう」
 踵を返しかけたそのときだった。突然、足元の力が抜けたかと思って見下ろせば、力を失ったのは自分ではなく、地面の方だと気が付いた。踏みしめていた砂によって吸い込まれていく。まるで、蟻地獄のように。
「フイ!」
 相棒の姿を探せば、甲高い悲鳴を上げて、フイもまた足を取られていた。砂に吸い込まれていく。砂が落ちているのだ。地面の底に。その力は強く、抵抗もむなしくあっという間に腰辺りまで埋まった。
「くそっ!」
 ヒーロよりも先に吸い込まれたフイの姿が消えていくのを視界の端で捕らえたけれど、もうどうにもできなかった。ヒーロは熱い砂の中に沈んでいく自分の身体を意識しつつ、強く目を閉じた。目を覚ますことがあるかどうかわからないけれど、次に目覚めたときに目の前に何があろうとも驚かないように、心を決めた。

 しかし、目が覚めたとき目の前に広がった光景に、ヒーロは言葉を失った。彼が砂漠の地下で見たのは、死体。いいや、眠っているのだろうか。無数の人間が安置されたガラスの塔だった。
「フイ!フイ!」
 砂と一緒に置いてきた天井を見上げれば、ずいぶんと高いところに光が見える。落下した下に砂があったおかげで助かったものの、全身を打ちつけた痛みがぎしぎしいう。ふと気がつくと、左腕をひどく擦りむいていた。適当に服の端を切り適当に巻きつけては見たものの、ずきずきと痛むそれは軽く熱を持っている。
 明りはなかったけれど、開いた天井から注ぐ光で、円錐型の塔の中は明るかった。ぐるりとヒーロを囲むようにそびえるガラスの塔の中には、立ったまま眠り続ける人間達が何人も並んでいる。所々が破損し穴の開いた場所の人間は干からびて死んでいるようだった。皆が同じ服を着ており、大人も子供も男も女も、一様に無表情。その光景は奇妙だった。物言わぬ人々に見下ろされるのは恐ろしい。
「フイ!」
 名前を呼ぶと、暗がりの中からフイはちょこちょこと姿を現した。落ちたときに足を打ちつけたのか、少し引きずっている以外は特にケガはないようだった。
 気遣わしげに近づいてきた彼女の頭を撫でてやり、自分の無事を伝えると、彼女はほっとしたように、口に銜えていたものを差し出してきた。受け取って見れば、それは小さな金属製のペンダントだった。
 何かの紋章だろうか。風化して削れた表面には、一組の弓と矢が描かれているように見える。下から上に向かって放たれようとしている矢だ。裏には、文字が刻まれているようだったが、ヒーロには到底読むことのできない文字だった。それがかつて地上で使われていたものだということは分かる。昔村でも数人の老人が読むことができた。直線と曲線で結ばれた文字は、一体何を意味しているのだろう。ヒーロはペンダントをポケットにしまいこむと、重い腰を上げて痛む足で立ち上がった。
「ここは嫌な感じがする」
 ぽつりとつぶやくと、彼の声はガラスに反響して、酷く遠くまで響いていった。もう何百年もこの奇妙な塔の中に声が響いたことなどなかったのだろう。たった一言だけで、見る見ると埃が舞い落ちてくる。
「フイ。出口を探そう」
 まとわりついた砂と埃を払い、一緒に落ちてきた旅の荷物を集めて、ヒーロは歩き出した。空気の流れを頼りに、フイが出口までの道筋を探してくれるだろう。
 気の遠くなるような歳月のあと、ようやく現れたヒーロが背を向けても、眠り続ける人々は何も言わず沈黙を守り、引きとめることも適わないまま、夢は果てしなく続いていくことだろう。