終末世界にて・3

7.邂逅
 岩と砂ばかりの荒野にもオアシスはある。
 毒の少ない水が湧き出し、偶然たどり着いた植物の種が根を下ろす。かつて失われた自然の循環が生まれ、小さな緑はやがて樹となり草となり花となって、水辺に広がり、水を求めて動物が集まってくる。食べる者がいれば、食べられる者がおり、育つものがいれば、死ぬものがいる。
 そういうオアシスを見つけるのは稀なことだったから、ミストの鋭い目が、かすかに光る水の反射を捉えたとき、タウは迷わずに手綱をそちらへ向けていた。
 オアシスを見つけるのは、本当に久しぶりのことなのだ。
「水浴びができるね。ミスト」
「わしなどが水浴びしたら、あの貴重な水があっというまに流れてしまうわい」
「そんなことないわ。だって、とてもたくさん水があるように見えるもの」
 水辺を覆うように広がった雑木林の外に、ミストは緩やかに翼を広げて降り立つ。ひらりと飛竜の背から降りたタウは、大きく伸びをして、思い切り空気を吸い込んだ。乾いていない、心地よく湿った緑の匂い。これまで渡ってきた荒野とは別世界のようだ。
 背は低いが、しっかりとした枝と葉をもつ植物に覆われた水辺は、翳っていてずいぶんと涼しく感じられる。思わず飛行用の重いブーツを脱ぎ捨てて裸足になれば、熱く乾いた砂ではなく、緑色の草と苔が地面を覆い、この地に土が生まれ始めていることを示す。きっと長い年月がかかったはずだ。何もかもが砂になって崩れ落ちた時代よりも下から、生き残り生存してきた土を苗床にして、種が運ばれて芽を出し、水を求めて広がった結果のささやかなオアシスなのだろう。
「ここは気持ちがいいね、ミスト。故郷には、こんなところはなかったわ」
「この地上にだって、そうたくさんあるものでもないさ」
 一面に広がる湖に駆け出そうとした時だった。
 ふいに、タウの視界の中を影が横切ったかと思った次の瞬間、茂みの中から、素早い影が飛び掛ってきた。
 あっと声をかけたときには、小柄なタウの身体は地面に押し倒され、目の前には鋭い牙がちらつく。大型の肉食動物は、タウの頭に噛み付き飛行帽を奪う。危うく、彼女自身の頭蓋骨を噛み潰されなかったのは、飛行帽自体が厚手の革で作られていたこともあるが、一瞬、牙の力が緩まったからだった。
 ミストが一喝咆哮を上げると、大型の猫のような動物は驚いたようにぴょいっとタウの体から飛びのくと、そのまま茂みの方へ姿を消した。
「タウ!大丈夫か?」
「うん」
 心配そうに覗き込んでくるミストの大きな金色の瞳。軽い放心状態から首を振り立ち上がったタウは、自分が負ったかすり傷を見る。倒れたときに石か何かで擦ったのだろう。それ以外は無傷。大型の猫が力を加減したのだ。そうでなければ、今頃タウの命はなかっただろう。
「小悪魔め!かみ殺してやろうか?」
「ミスト。私は大丈夫。あの子、私を殺そうとはしなかったもの」
 タウは、腰につけている短剣を抜くと、猫が姿を消した茂みの方へと足を向ける。後ろでミストは渋い顔で止めたのだが、彼女は聞かなかった。大柄なミストが、大きく首を伸ばして茂みの間を覗き込もうとするその下で、タウは、鬱蒼とした背の低い草木を掻き分けて、猫の足跡を追いかける。
 足にまとわりつく茂みが途切れたのは、ちょっとした広場だった。水辺に近い場所で、日陰でもある。そこでタウが見たのは、横になったままぴくりとも動かない青年と、その傍らに寄りそう、さっきの猫の姿だった。
「人だ・・・。ミスト!人が倒れてる!!」
 それは、タウがこの地上に落ちてきて以来、はじめて見る人間だった。

「死にそうなの?」
「いいや。まだ、死にはせんだろう」
 そっと手を伸ばし、青年の額に触れると、ひどい熱があった。呼吸は乱れ、全身から汗が噴出している。ひどい匂いは、右腕の傷口からだということが分かった。
「何かの菌にやられたんだろう」
 水辺で布を濡らし、熱い額の汗をふき取ってやれば、それが多少でも気持ちがいいのか、青年はかすかに反応を返してくる。時々うわごとのように「フイ」と呼ぶことがあって、そのたびに、大型の猫が顔を持ち上げて主人を心配するように、顔をのぞかせる。
 驚いたことに、この肉食動物はタウに襲い掛かることもなく、大人しく傍らに控えていた。この手の動物が容赦なく弱者をかみ殺すのを何度も見てきた彼女にとって、最初は慣れない歓迎ではあったけれど、主人を思う不安そうな顔をする猫が哀れでもあった。この子のためにも、熱にやられた青年を助けてやろうと思うほどに。
「ミスト。どうしたらいい?」
「わしの血を飲ませてやれ」
 意識のない青年と、タウと大猫のフイを見下ろしながら、ミストはひどく厳かな調子でそう言った。
「どんな病にも効くはずだからな」
「それは、あなたが魔法使いだから?」
「さぁな。忘れてしまったわい」
 飛竜は、自分の牙で指先を噛み切ると、それをタウに差し出す。一瞬、フイが警戒するように低いうなり声を上げてその場から逃げ出そうとしたけれど、思いとどまった。主人のそばを離れるべきではないと思ったのかもしれない。
「あとは、傷の手当をして。安静に寝かせてやることだ」
「助かるかしら?」
「こやつの生命力に祈るほかないの」
 赤々としたミストの血を飲ませると、青年は一つ大きく呼吸して、かすかに眼を開けたようだった。一瞬眼を覚ましたのかと思い覗き込んでみるけれど、空ろなその瞳には何も映ってはおらず、少しするとすぐに閉じた。
 タウは、冷たい水に濡れた布でもう一度汗をふいてやる。ミストの血のおかげなのか、少し呼吸が落ち着いた青年は、強張っていた表情が緩み、穏やかな寝息を立て始めていた。
「地上にまだ人が残っていたなんて知らなかった」
「おまえの祖先が空を目指したのなら、この者の祖先は地を目指したのだろう。生き残るためならば手段を選ばないのが、生き物というものだからの」
「まだ、他にも生き残りがいるかしら?」
「さぁ。それも、この男が目覚めたら聞いてみればいい」
 ミストは、大きな体を横たえ疲れたように首をもたげると静かに眼を閉じた。彼が疲れて眠る時は、何も言わない方がいい。それを知っているタウは何も言わずに、目の前の青年を見た。
 自分以外の生き残り。この地上で出会った初めての人。なんだか不思議な気分だった。この地上へ落ちてきて、もう他には誰も、生きてはいないと思っていた。ミストもそういっていたし、自分が最後の生き残りだと思っていた。けれど、現実はそうではなかったらしい。
 この人は、一体どこから来たのだろう。どんな道をたどってこのオアシスを目指してきたのだろう。早く聞きたい。早く知りたい。この人のことを。
 タウは空を見上げた。夕暮れ誓い赤茶けた空に、かすかに星屑が落ちてくる光をたどりながら、故郷のことを思い出した。タウが生まれ育った場所。今はもうない、空の上の家。故郷が地上に落ちたのはもうずいぶんと前のことだった。


8.落下する故郷
 最後に眼に焼きついているのは、小さな小さな小窓から見た母の顔だった。それも、対真空用の分厚い二重硝子越しで、泣き笑いの母の顔はさらに滲んで見えた。
「嫌だ!母さん!!行きたくない!!」
 タウは、小さな硝子窓の前で泣き喚いた。無駄だと知りながら、厚さ30センチの装甲を両手で叩いた。故郷ごと母と切り離されて、少しずつ離れていく小型の救命装置から見える情景は、どんどん小さくなっていく。
「母さん!!」
 ザーザーとかすかに聞こえる雑音の中に、最後の母の言葉が乗ってくる。
「生き残りなさい。おまえだけでも生きて地上に降りなさい。そこには何もないかもしれない。それでも、また別の世界があるかもしれない」
 後になってから、何かの事故が起こったのだということに思い当たった。それまでは、一体何が起こったのかがわからず、どうして、自分だけが生き残ったのかも、呆然としたままで考えることさえできなかった。
 ただ、激しい揺れと警告音の鳴り響く衛星都市の中を走り回り、ようやく見つけた救命装置の中に、タウは無理矢理押し込まれただけだった。理由もなにも分からない。母は何も言わなかったし、狂ったように「あなただけは生き残りなさい」と言っていただけだった。
 言われたとおりにタウは生き残ったけれど、発射された救命装置の中から見えた、故郷の衛星が脆くも崩れ去っていく様は、心に突き刺さる凄惨な情景だった。
 それまで雨というものを知らなかったタウにとっては、どう表現すべきかその時は分からなかったのだが、あとになってからあれは雨だと思うようになっていた。宇宙の果てから降ってくる流星の雨が衛星都市に降り注ぎ、長い長い年月、人々の生活を守ってきた天板を突き破ったのだ。真空が入り込んだ居住地区には多くの死者が発生し、隔壁に閉じ込められた人々もみんな死んだ。一瞬の惨劇で生き残れたのはほんの一部の人間だけだったのだろう。元々衛星の人口はそれほど多くはなかった。若い世代に比べれば、年寄りのほうが圧倒的に多かったし、そういう中で、子供を先に逃がそうとするのは自然の流れだったのだろう。しかし、まだ見ぬ地上で生き残れる世代はさらに数が少なかったはずだ。タウは、その数少ない一人であり、また運がよかったのだろう。
 雨のように降り注ぐ、星の欠片と衛星の破片たち。その中に、いくつかの救命装置が見て取れた。それぞれに誰かが乗っているのだろう。そのうちの一つが、別の破片に撃たれて破壊されるのを見たとき、自分もすぐに死ぬだろうとタウは思った。バラバラに破壊されて、燃えて落ちていくたくさんの故郷の欠片たちと一緒に、自分も跡形もなく燃えて死ぬだろう。そう思ったら、少し気が楽になった。突然眠くなって、ゆっくりと目を閉じる。救命装置の中は埃っぽく息苦しかったけれど、そんなことは苦にもならなくなった。

 眼が覚めたとき、最初に目に入ったのは砂だった。その時、生まれて初めてタウは砂というものを見た。風にあおられてさらさらと飛ばされていく金色の砂に手を伸ばし、握り締めてみる。ひどく乾いた感触が新鮮で何度も握り締めては落とし、握り締めては落としを繰り返すうちに、少しずつ体の感覚が戻ってきた。
 起き上がると、そこは地上だった。目の前にはなにもない。ただ金色の砂の原が続き、所々に岩が風にさらされている。まだ、空からきらきらと輝く破片たちが降り注いでいた。雨のように。
「大丈夫かね?」
 ふいに声が聞こえたので、タウは驚いて後ろへ倒れこんでいた。驚くことに、この地上の重力はとても強く、安定していて、人工重力下で生まれ育ったタウにはとても重い感覚を与えていた。
「おまえは、運がよかった。他の装置はほとんどが燃えてしまったようじゃ」
 暗く落ちた影の主を見上げて、タウは言葉を失った。そこに顔を覗かせていたのは、見たこともないほど大きな生き物。硬い鱗に覆われた赤黒い巨大なそれは、金色の眼でタウを覗き込み、今にも食べられてしまいそうな大きな口を開けていた。
「怖がることはない。わしは、人間を食べたことはないぞ。たまに、水を飲んで草を食む以外はな。おまえ、名はなんというのだ?空から降ってきた者よ。おまえは、私よりも高いところからやってきのだろう?」
 巨大な生き物が、竜と呼ばれていることをふいに思い出して、タウはぱっと立ち上がった。足がふらついてまた倒れそうになるのをなんとか耐えながら、母の言葉を思い出す。生き残りなさい。地上へ降りて生きていきなさい。
「私の名前はタウ。あなたは?」
「ほぉ。よい名前だな。昔似た名前の男を知っていたが・・・いや、全然違ったかな。私の名はミストじゃ。タウ。久しき人間の娘よ。わしの翼でおまえを守ってやろう」
 そうしてタウとミストは、落下した衛星の生き残りを探すために旅に出たのだ。


9.そして、再び
 ヒーロはゆっくりと目を開けた。星が綺麗な夜だった。頭上には、暗い空の色を覆い隠すくらいの星が輝き、線を描いて落ちてくる。星の欠片が降るのは、かつて砕けた月の破片が落ちてくるからだと、地上に来て知ったことだが、そうやって、満天の星空を見上げていると、自分も落下しているような感覚に襲われることがあった。地上にいるのだから、これ以上落ちる場所もないのに。
「目が覚めたかね?」
 他人の声を聞くのは久しぶりだった。半年くらいは一人で旅をしてきたのだ。そばに寄りそうフイも話まではしてくれない。では、一体誰だ?掠れたしわがれ声はすぐ近く、驚くほど近くから聞こえた。
 思わず起き上がろうと試みたが、鋭い痛みに襲われてすぐに地にひっくり返った。特に右腕が熱く痛い。あの眠りの塔で擦り剥いた傷だ。
「ムリはせん方がいいぞ。また熱が上がるかもしれん」
 ぬっと目の前に現れた大きな影の中に、ぎょろりと動く金色の目。一瞬、声を上げることも忘れて、ヒーロは呆然とした。これほど大きな生き物を彼は見たことがなかったし、この地上に生きているとも想像したことがなかった。しかも、目の前の巨大な生き物は言葉を喋るのだ。
「はっは。誰も彼も、同じような反応をするものなのだな。そりゃぁ、わしの身体は大きいが・・・おまえたちが恐れるほど狂暴ではないぞ。おまえが連れている、あの猫よりはな」
「猫・・・フイのことか?」
 ようやく声が出た。身体はまだ動かせそうになかったが、視線だけを巡らせて辺りを見回す。フイはすぐそばで身を丸めていた。その横には見知らぬ少女。
「わしの連れがおまえを見つけたのだ。看病も彼女がした。感謝することだな。偶然、この子が見つけていなければ、おまえは今ごろ干からびていただろうからの」
 少女も、フイと同じように身を丸めて眠っているようだった。気がついてみれば、彼女の毛布は自分の肩にかけられており、ヒーロは酷く恥ずかしい思いをした。偶然とはいえ、地上に出て初めて出あった少女に助けられるとは。
「あんたたちは・・・?」
 ヒーロの問いには答えず、翼を持つ大きな生き物は鼻を鳴らし、大きく背伸びする。
「タウ。目覚めたぞ」
 少女が眠そうに身じろぎする。何も起こす必要もないだろうに、と思うヒーロには構わず、がなるような低い声は少女の名前を呼ぶ。
「目が覚めたら起こせといっただろう」
「あぁ・・・うん。ごめん」
 寝ぼけ眼でもぞもぞと起き上がった少女と眼があった。綺麗な黒い色。ヒーロが嫌いだった、土の中の暗闇とは違う。星が落ちてくる夜空の色と同じだった。
「気分は・・・どう?平気?」
「あ・・・うん。ありがとう」
 少女と同じく眼を覚ましたフイが、しつこく顔を擦り付けてくるのをどうにか押しとどめながら、ヒーロは呆然と少女を見つめていた。初めて見た。村の人間以外の女。誰かが生き残っているとは思っていなかった。何もない地上で、こうしてまた人に会えるなどとは思っていなかったのだ。
「私はタウ。大きなのはミスト。私たちは旅をしているの。生き残っている人を探して。あなたが、最初ね。この地上で出会ったのは」
「オレも・・・君が最初だ」
 重い身体をどうにか持ち上げて、体を起こす。少しでも近くで、彼女の瞳の色を見たかったのだ。
「オレはヒーロ。地下の村から地上へ出てきたんだ」
「あなたの話をもっと聞かせて。教えて欲しいの、もっと、地上のことを」
 そういってタウは笑った。ミストも見たことがのない、嬉しそうな顔で。