魔法使いの街と魔法使いの話・2

 古い石造りの廊下は中庭に向かって開けている。中庭は緑と樹と水に満ちた、生徒たちの憩いの場である。その場所を挟んで、反対側は女子棟だ。
 魔法院は古くから共学制であるが、授業は別という伝統が守られているのだ。もちろん、交流がまったくないわけではないから、少年たちには学院のアイドル的な少女がいるのだが、たとえ見習いとはいえ、魔女に手を出すのは危険なことだった。
 ルウとセトは今やすっかり静まり返ったクロア女史の教室の前に、無事に立ち尽くしていた。
「何で、あんなこと言ったの?」
「なにが?」
 立たされていることに多少落ち込んでいるルウに比べて、セトはといえば、気楽で自信満々。反省の色はないし、このささやかな罰も、一時のこととタカをくくっている。
「クロア女史を怒らせたこと」
「別に。あのババァが嫌いだったから」
 そう、あっけらかんと答えるセトの傍らで、ルウは小さくため息をついた。セトの無鉄砲さになのか、自分のバカ正直さになのか分からなかったけれど。
 クロア女史の教室は、問題児が出て行くととたんに静まり返っていたから、ルウとセトの会話以外に聞こえるのは、鳥の鳴き声くらいだった。
 そこに石をこすり合わせるような奇妙な音が重なりはじめた。その音は、徐々に大きくなり、やがて見えるようにまでなった。
 廊下を囲む石柱の中ほど。石が盛り上がり、変形し、見る見ると姿を現したのは、石製のガーゴイルだ。嘴は鋭く、両足は禍々しい。翼は悪魔のそれに似ており、かぎ爪も現れた。
 その姿が岩の中に完全に出来上がると、石色の肌の中にかっと銀色の眼が開き、ルウとセトを睨みつけてきた。その眼は思慮深くもあり、同時に狂暴な色も秘めている。魔法を学ぶ子供ならば、誰でもガーゴイルの一睨みで怖気づき言葉を失うだろう。
『またおぬしらか』
「やぁ、シィ」
 ビクっと身を震わせるルウとは対照的に、セトはいたって気軽にガーゴイルに声をかけた。
『わしは、タァだ。シィは女子棟におるわ!おぬしらのような悪ガキを見張るためにな』
 心なしかルウは安心して、ため息をついた。
「それはつまらないだろうな。女子は大人しいから」
『おぬしらのような問題児はおらん方がいいわい!』
 タァとシィ、2匹のガーゴイルはこの学院が出来た時から石廊下に住んでいる魔法生物だ。大昔の魔法使いがこの建物の見張りとして創ったらしいが、ガーゴイル自身はどれくらい生きているのかも記憶していないらしい。
 セトとルウは、ガーゴイルの監視眼のお得意様だった。
『今日は何をしたのだ。おぬしら』
「クロア女史を怒らせたんだ。あの魔女ときたら嵐を呼んで、硝子は割れるし、教室はめちゃくちゃで」
『おぬしらが悪さをしたのだろう』
「そんなことないよ!」
 セトの後ろから覗き込むようにして、ルウが声を上げる。
 自分も含め、セトのみの潔白を証明するのが、ささやかな使命だとルウは思ったのだ。
「何も悪いことなんてしてないよ。その人が勝手に…」
『言い訳なんぞ聞きたくないわい。わしには結果だけで十分。廊下に立たされたおぬしらを見張ることが、わしの務めだからな』
「あいかわらず、石みたいに頭の硬い奴だな。あんたは」
 石に宿った魔法生物は、がらがらと音を立てて笑った。鋭い目はそのままだったが、狂暴で加減を知らないシィに比べたら、タァはユーモアがあるし、セトやルウにも敬意を払ってくれる。
「なぁ、ルウ」
 未だ、がらがらと音を立てているタァを横目にして、セトは呆然としたままのルウを小突いた。
「おまえ、何持ってる?」
「えっ…。と」
 友人の背中裏の意図を読み取ったルウは、慌てて上着のポケットの中を探った。
 いつもガラクタばかり入れているポケットの中身は、やはり頼りなく役立たずなものばかりだったが、古いビンのフタと、へし曲がったクリップとの間にいいものを見つけた。
「魔法球があるよ」
「オレは万年筆と鳥の羽根。これで逃げられるな」
 セトはにやりと笑った。つられてルウの口元も緩む。いけないこととは分かっているが、なんといってもこのスリルはたまらない。セトにやめるように言ったところで、どうせ聞かないのだから言わない方が身のためだ。つまりは、共犯になるということ。
 ルウは、タァに見えないように気をつけながら、魔法球をセトに渡した。代わりに万年筆と羽根を受け取る。
「なぁ、おまえは何でオレたちを見張ってるんだ?」
 背中の後ろ、指先で器用に魔法球を弄びながら、セトは何気ない風を装っている。タァをひきつけておくためである。あの間に、ルウは急いで万年筆を取り出し、自分の左手のひらに術式図を書き込み始めた。
『それが、わしの務め。今更聞くまでもあるまいに』
「そうやって一生、石の眼を見開いてるのか?」
 小さめに円陣を書き、中心に十字を引く。これが基本の形。あとは、使う魔法の属性や特徴を書き込むのだ。ルウは、上半分に集中して図式と古代文字、それに空と風を表す紋章を書き込んでから、手のひらに羽根を置いた。
『わしらに時の概念はない。死ぬこともまたない。我らは生きているが、同時に死んでもいるからな』
「じゃあ、その頭が壊れたって死にはしないってことだよな」
 セトがにやりと笑うのと、ルウが羽根を握り締めるのとはほぼ同時で、次の瞬間には、目の前を魔法球がふわりと横切っていくのをやけにぼんやりと眺めていた。
 親指の先ほどの大きさをした魔法球は、魔力を宿しやすい虹水晶でできている。光を反射させると、まるで小さな無数の星が透明な石の銀河の中に閉じ込められているように見えるのがルウは好きだった。その虹色の光は、見る者を魅了する力があり、時には精神が吸い込まれてしまうと聞いたことがあったけれど、それが石の生物にまで通用するかどうか、ルウもセトも一度試したいと思っていたのだ。
 反射的というべき素早さで、タァは石の嘴を広げ、器用に魔法球をくわえとっていた。
『何のつもりだ?』
「悪いな。タァ」
 セトはしてやったりという風に笑い、パチンッと指先で音を鳴らす。と瞬間、まるで不調和なグラスを割るような音がしたかと思うと、魔法球はタァの嘴と、それがくっついている小さな頭を巻き込んで、派手に砕け散った。音も何もない。ぱっと透明な光に眼が眩む。
 そうして後に残されたのは、石塊と化したタァの胴体と、キラキラと舞う虹水晶の破片だけ。
「行こう!ルウ」
「あ…うん」
 音はかすかだったのに、耳の置くではひどい音波が響いた。そのせいで、ルウにはセトの声がはっきり聞こえない。手を引っ張られてようやく我に返った。

 2人は騒然とする石廊下を走り抜けた。
 セトの魔法を倍増させ、砕け散った魔法球の衝撃は学院中を襲い、生徒も教師も血相を変えて、教室から顔を出し声を上げている。そのほとんどが、脱走者をはやしたてる歓声で、2人を止めようとする教師の何人かを押し留める生徒の姿もあった。
 クロア女史の金切り声も聞こえたけれど、誰も聞きはしない。
『止まらんか!クソガキどもが!!』
 走りながら振り返ると、巨大な翼を広げた石のガーゴイルが、狂暴な牙を光らせて中庭を飛んでくるのが見えた。それが、粉々になった身体を修復したタァなのか、女子棟で暇を持て余しているらしいシィなのか、ルウには分からない。
「急げよ!」
「ガーゴイルが来るよ!」
 岩の奥底から搾り出したような、重いうなり声が背後に迫ってくる。たぶんシィだ。ルウは直感的にそう思った。鉤爪と翼で、馬鹿な生徒を捕まえて、分身であるタァの復讐とばかりに、鋭い嘴を容赦なく振り下ろすことだろう。
 それだけは、ご免被りたい。
「風を呼べよ、ルウ。あいつを吹き飛ばせ」
「今すぐに?」
 ふと反対側の校舎を見ると、見物人は男子生徒だけではないことが分かった。
長方形をしている校舎の再奥、男子棟と女子棟の間は、ちょっとしたテラスになっている。その柵の向こう側は、眼下に町並みが広がり、真下は崖だ。ルウとセトはテラスを目指していた。
「今すぐにだ!」
 ルウは握っていた左手を開いて、ふわりと浮かんだ羽根をふっと吹いた。ごく何気ない方法。羽根は術式の上から舞い上がり、すぐにどこかへ飛んで行ってしまった。
だが、この羽根が重要なのだ。高度な魔法使いには必要ないのだが、魔法使いとしては未熟なルウには術式を解き、魔法を発動させるためには補助的なアイテムが必要だった。つまり、手のひらの術式図と羽根。一種のお守りのようなものだ。
風の魔法は、ルウが得意とする数少ない魔法の1つである。最初にゆるやかな風が来て、次には突風が吹く。その風が重要だ。
「来るよ!」
 突風が、というつもりだったのに、横目に捉えたガーゴイルの鉤爪に、言葉の語尾が悲鳴みたいに裏返った。
『きさまらの目玉、抉り取ってやるぞ!』
 2本の足の鉤爪が、石廊下の壁をひっかく。堅いクッキーが割れたような音だ。
 テラスまではあと少し。邪魔する者もない。
 背後には、ルウの突風が音をたてて、迫っていた。
「行くぞ!ルウ」
 セトは、決して離れないように、しっかりとルウの手を握り締めた。
 テラスへ駆け込むのと、突風が中庭へやってくるのとは、ほとんど同時だったが。ルウが振り返ろうとするのよりも早く、突風は目前まで迫ったガーゴイルを巻き込んで、テラスを吹き抜けた。
 鼓膜を振るわせる風。ルウが呼んだ季節風の中。クロア女史の嵐に負けない騒動を後ろに、セトとルウは、テラスを乗り越えて、崖の下へと飛び降りた。


 昔。今のような数えの年号がなく、漠然と時が流れていた時代。
 魔法使いの力が徐々に退化し始めると、一番最初に消えたのは、飛行の魔法だったと言われている。
 どんな魔法使いにも、自ら浮上し、自由に空を飛びまわる魔法は使えない。ルウがこの街で最高の魔法使いと信じて疑わない大魔導師アルファでさえ、空を飛ぶことはできないだろう。
 だが、古代の魔法使いの力が消えてなくなってしまったわけではない。その証拠に、ルウは風を呼ぶことができるし、セトは滑空の魔法を使うことができる。
 セトは右手を天に突き出し、まるで巨大な不可視の傘を持つように、握り締めている。目に見えない傘は、落下する2人分の空気抵抗を作り出し、ゆるやかな速度での落下を助けていた。
 ルウは、セトの左手をしっかりと握り締めていた。ルウには滑空の魔法は使えない。いや、魔法院で学ぶ魔法使いたちの中で、これほど高度な魔法を使いこなすのはセトだけだろう。しかも、術式図を必要としない。彼はまるで触れた本の内容をすべて暗唱するかのように、魔法を使うのだ。
「ルウ。大丈夫か?手を放すなよ」
「うん」
ルウは、宙ぶらりんの足元を見る。白い壁に赤茶色屋根の家々が、足元を通り過ぎていく。風に運ばれて、海辺の方へと流されていくのが分かった。風は海を越えていくのだろう。
「シィはどうなったかな?」
「テラスから飛び降りる瞬間、壁にぶつかって木っ端微塵」
 そっけない口調でセトが言うのを聞いて、なんとなくルウは遠くなっていく学園のテラスを振り返った。そこには、まだ何人かの生徒と教師たちの姿が見えたが、誰も追いかけてくる気配はない。
「心配するなって、あいつらは石でできてるんだ。明日には、ぴんぴんしてるさ」
「きっと、先生たちに大目玉だ」
「おまえは、ホントに心配性だな…」
 ふん、と鼻で笑うのがイタズラをしたあとのセトの癖だ。どうせ怒られやしない、そうタカをくくっている顔。
 共犯になっておいて、後戻りできないところまで来てから振り返るのがルウの癖だ。だから、セトのあっけらかんとした性格がうらやましいと少し思う。
「どうせ明日になったら、オレたちのことなんてどうでもよくなるんだ」
 魔法使いなんて、そんなものさ。とセトは付け加えた。
 2人を乗せた風は、ずいぶん遠くへと過ぎ去っていた。セトの滑空も長くは続かないから、すでに高い屋根に足が届くくらいには低くなって空で、セトはルウを見下ろした。
「それより、遊びに行こうぜ。ルウ」
「どこへ?」
「そうだな…」
 考えるようにつぶやいた瞬間。セトは、握っていた右手を空に向かって開け放っていた。魔法の力が消える。
 2人は、屋根と屋根の間に張り巡らされたワイヤの群れの中へと落下していく。ルウは悲鳴を上げ、セトは大笑いしながらルウの手をしっかりと握り締めていた。
 特に行く当てはなかったけれど、とにかくも地面に降りることが先決だ。
地を歩かなければ魔法使いではない。そんなことを言った昔の偉大な人の名前を、ルウもセトも知らなかったけれど。