雲の塔

 荒地の果てにある雲の塔には、魔女が住むと言う。

 ソーレンは荒野で一匹のフェネック狐を助けた。
「へぇ、ソーレンって言うのか。オレはマーシュ。よろしくな」
 村をでて初めてであったこの小さな生き物は、つい先ほどまで死に物狂いで砂豹から逃げ回り、この世の終わりかという悲鳴を上げていたのにかかわらず、こともなげに軽い調子で挨拶する。
 大きな三角形の耳をぴくぴくと動かし、柔らかい尻尾は笑うように左右に揺れる。荒野に生きる野性の動物を知らなかったソーレンは、ただ呆然と不思議な気持ちで、マーシュを見た。
「なんだい?オレの顔に何かついてる?」
「ううん。君って、なんだか不思議だなっと思って」
「不思議?どこが?」
「さっきまで、死にそうな顔してたのに、今は全然平気だから」
 砂豹は小柄の肉食動物で、ソーレンの村の近くでも頻繁に家畜を襲っては、追い払っていたから。彼らの耳が、背後からの音に弱いということも分かっていた。砂豹の前足に押さえ込まれて身動きとれず、今にも頭からがぶりと食べられそうになっていたマーシュに気がつき、ソーレンが思い切り石を投げると、砂豹は驚いてどこかへ逃げていったのだ。
「そりゃ、生きてるから。おまえは、命の恩人だな」
 小さな鼻をスンスンと鳴らしてマーシュは笑った。ソーレンが持っていた食料の小分けをその小さな口の中でもぐもぐ噛みながらだ。
「で、こんな荒野で何してるんだ?」
「旅をしてるんだ」
「どこへ?」
「雲の塔」
 素直にそう言うと、マーシュは思いっきり噴出した。
「雲の塔なんてあるわけないだろ」
「そうかな?」
 ひどく塩っ辛い干し肉をかじりながら、ソーレンは問いかける。ほとんど信じていないという口ぶりだ。
「オレは、この荒野のあっちこっちへ行ったことがあるんだ。それがどれくらいの距離か知ってるかい?」
「分からないよ」
 ソーレンは気のない返事をする。
「端から端まで何ヶ月もかかるんだぜ。その間、ひたすら走り続けて横断するんだ。北から南へ、西から東へ。でも、塔なんてどこ見たことないぜ」
「本当に?」
「本当だとも!オレの話が信じられないのか?」
 ソーレンは、うーんと唸りながら首を傾げるだけで何もいえなかった。たぶん、何も言わない方がよかった。
 本当に、雲の塔があるのかどうか、ソーレン自身分からなかったのだ。
 彼が生まれた村では、塔の物語は誰でも知っている。古い語り部の婆が耳にタコが出来るくらい何度も語って聞かせてくれたお話だ。
「物語の中では、雲の塔には魔女が住んでるんだって」
「魔女?そんなのがいると思うのか?」
「その魔女が、雨を降らせてるんだよ」
「それなら、さっさと降らせて貰わないと、この辺りはきれいさっぱり干上がっちまうよ」
 マーシュは軽口を叩きながら、尻尾を振ってけたけたと笑った。
 水が干上がっているのはずっと前からだ。ソーレンが生まれるよりもずっとずっと前から、この土地は干からびて死に掛けている。川はなくなり、ため池の水も底を付いた。作物は育たず、人も動物も飢えて死に掛けている。だから、ソーレンは村を出たのだ。一人でも食べる人間が減れば、それだけ別の人間の腹が満たされる。
「だから、雨を降らせて欲しいと、そうお願いしに行くつもりだよ。君は?マーシュ」
 美味しく食事を終え、すっかりご満悦で毛繕いをしていたマーシュは、一瞬困ったような目をソーレンに向けて、すぐに鼻をひくひくと動かした。そのとき、何も言わずにさっさと立ち去ることもできたのに、マーシュはそうしなかったのだ。少しだけ考えるような素振りをしてから、再び翡翠色の瞳でソーレンを見上げる。
「別に、行く当てもないし」
 それっきり彼は何も言わず、再び食後の毛繕いに勤しみ始めた。
 ソーレンも何も言わなかったけれど、本当はとても嬉しかった。たった一人で村を出て、誰にも会わず、一人で旅をしていた彼にとって、初めて出会った友達がマーシュなのだ。彼がいてくれて本当によかった。心底そう思いながら、最後の干し肉の一欠片を飲み込んだ。

 ソーレンの村は、荒野の中にポツリと残ったオアシスにあった。オアシスといっても、申し訳程度に樹があり、かすかに水が湧き出ているだけの心細い資源に、痩せ細った人々がしがみ付いている小さな村だ。
 ソーレンが村を出て行くと言った時、彼の両親はひどく悲しそうな顔をしたけれど、引止めはしなかった。2人とも分かっていたのだ。いつか、その時がくることを。
 生まれつき体が弱く、右手が不自由なソーレンが、村で生きていくことはとても難しい。物事を覚えたり新しいものを考えたりすることは村一番だったが、それだけでは、厳しい生活の中では家族の重荷なのだ。それくらい、聡明な少年には分かっていた。
「いつ出て行く?」
 硬い声で問いかける父に、次の満月の夜に、とソーレンは答えた。
「月明かりがあるうちに、東へ行くよ」
  かすかに声が震えたのは、恐れや心細さからではない。分かりきっていたけれど、両親が一粒の涙も流してはくれなかったからだ。
「なぜ東へ行く?」
「雲の塔へ行く」
 素直に答えたけれど、父にはあまり興味のないことらしかった。引きとめる気がないのならば、別にどこへ行こうと関係ないと思ったのかもしれない。もしかしたら、ほっとしたのかも。
「何か、私達にできることはあるか?」
「何もないよ。父さん」
 だから今にも泣き出しそうになる気持ちをどうにか抑えて、ソーレンは小さく笑った。笑って出て行った子供がいたと、両親に覚えておいて欲しかったのだ。
「弟や妹たちを大事にしてあげて。それと、もうすぐ生まれてくる赤ん坊も」
 そう言って、大きく膨らんだ母親のお腹に触れる。
 硬く唇を噛み締めて、そっとソーレンの細い体を抱きしめる母親の胸の鼓動を聞きながら、さようならと呟いた。俯くばかりの父親にも。さようなら。ごめんなさい。もう二度と会えないけれど、さようなら。

 東へ向かう街道の跡がかすかに残っていたので、ソーレンとマーシュはひたすらに街道を東へ向かった。この街道が使われていたのは一体どれくらい前のことだろうと、ソーレンが問いかけると、マーシュはフンと鼻を鳴らして「そんなこと知ったこっちゃない」と答えた。
 石畳の街道の両脇には下草が生え、石は割れて砕けている所もある。荒野に生えた草は、毒草ばかりだ。食べてはならないと、村で教わった。石畳の街道には古い轍が残っていたけれど、それにあったはずの交通の記憶は長い長い年月の中でとうの昔に消えてしまったようだった。
「何百年も使われてないんだ。きっと」
「どうして分かるんだ?」
「街道があるなんて、僕の村では誰も知らない。一番年をとった婆でも」
「みんな忘れちまったのさ」
 そう言って、マーシュは小さな足をせかせかと動かして街道を歩き続けた。
 昼間の間は日差しが強くて、到底外を歩き回ることができないから、ソーレンとマーシュが移動するのは、専ら日の入りから真夜中すぎの夜の間だった。辺りにはなにもなかったけれど、代わりに星と月が行く先を照らし出してくれていた。真っ二つに割れた月の欠片が、時々キラキラと輝きながら目の前を横切っていくのを見ながら、一体どこに落ちたのだろうかとマーシュと話した。
「マーシュは何処から来たの?」
「どこからって?」
 歩くのに疲れたフェネック狐は、器用に前足を使ってソーレンの鞄の上に駆け上がってきた。肩が少しだけ重くなったけれど、マーシュの体重くらいだったら、ちゃんと運べるだろう。
「僕は、ラクトンの村から来たんだ。昔は違う名前だったんだって。父さんが教えてくれたけど、忘れちゃったよ」
「オレは・・・どっかの洞穴さ」
「どこ?」
「さぁね。分からないな。砂の位置は常に変わってしまうし、何もないようで荒野の景色はすぐに変わってしまうんだから」
「そうなんだ」
 マーシュはキィキィと喉の奥を鳴らした。
「じゃあ、家族は?僕には、父さんと母さんと、弟が2人と妹が1人。本当はもうすぐ弟か妹が生まれるはずだったんだ。もう生まれたかな」
「オレの家族はみんな死んじまったよ」
「え?」
「砂豹に巣穴を荒らされてね。逃げ出せたのは俺だけ。家族も一族ももう誰もいない」
 言いながら、大きな耳を後ろ足で掻くマーシュは、自分の話なのにもうずっと遠くのどうでもいいことであるかのように、興味なさそうに欠伸をする。実際、もうどうでもよかった。もう忘れてしまった昔のことだ。この世界と同じで、昔のことはどんどん忘れてしまったほうが楽なのだろう。その日限り必死に生きなければならないのだから。
「寂しいね」
 居心地よい鞄の上で身を丸め、そのまま寝てしまおうとしていた彼は、ふいに呟かれた言葉に顔を上げる。見れば、星の明かりの下で、なぜだからきらりとソーレンの瞳が光ったように見えた。
「僕らは、一人と一匹。誰もいないんだね」
「そうさ。オレたちだけだよ」
「ずっと一緒にいられたらいいのに、ね。マーシュ」
 それには何も答えずに、マーシュは目を閉じた。

 何日も何日も歩いていくと、少しずつ空気が澄んでいくのが分かった。
 大地は相変わらず不毛だったけれど、毒草ではない青々とした健康な草を見かけるようになった。水はなかったけれど、吹く風にはどこかから水の匂いがした。最初にそれに気がついたのはマーシュだ。ソーレンにとって水は泥と同じ匂いのするものだったから、清浄な空気を思い切り吸い込むと、胸が痛んで噎せ返ったほどだった。
 轍が深くなり、街道は広がった。
 やがて、放棄された古い村の跡が現れるようになった。
「誰かが住んでたんだ」
「今は誰もいないがね」
 たったっと飛び出していって、マーシュが廃墟の村を一回りしている間、ソーレンは手近にあった石の家の中に入ってみた。ずっと歩いてきた街道と同じで、この村も、人がいなくなってずいぶんと長い時間が経っているようだった。人が暮らしていた面影はほとんどなく、朽ち果てた木の欠片が散乱するばかりで、何もない。
 けれど、ソーレンにとっては、生まれてはじめて見る人の土地だった。
「ここに住んでいた人たちは、どこへ行ってしまったんだろう?」
「さぁね」
 マーシュは口に何か銜えて戻ってきた。それは、茎が細くすっと伸びて、先端には見たこともない白く柔らかい葉がついていた。ソーレンはそんな草を見たことがない。
「なにこれ?」
「花を見たことないのか?」
 ソーレンは小さく首をふった。マーシュが持ってきたのは、花びらがぐるりと輪になった白い花だった。生まれ育った村にも花はあった。だがそれは小さな小さな灰色の粒のような花ばかりで、畑を耕し作物を増やすにはあまりにも弱しく、村の大人たちは困り果てていた。
 だがこの村に咲く花は、違う。美しく、甘い匂いがした。
「この辺りには、虫がいる。動物も多いんだろう」
「僕らが住んでいたところとはだいぶ違うね」
「だが、土地は痩せている。雨は相変わらず降らないし、干上がったままの井戸が向こうにあったぞ」
 かつて農地であったらしい場所には、毒草とそうでない草が鬱蒼と広がっていた。痩せた木が一本生えていて、腐りかけた青色の木の実を突く小鳥を、ソーレンは見た。

 さらに東へ進むと小高い丘を越えて、砂嵐に出会った。
 風が強く、巻き上がった細かい砂が体のあちこちに入り込む。ソーレンは上着を頭に巻きつけ、鞄とマーシュを両腕で抱えて、岩陰にうずくまっていた。立ち上がり動こうとするとあっという間に飛ばされてしまいそうだったのだ。
「こりゃ、ひどいな」
 小さく丸まって、ソーレンの上着の中に納まったマーシュは苦々しく悪態をついた。
不自由な右手が痛い。きっと風のせいだろう。ソーレンは自由に動かない手を憎々しげに見つめ、ため息をつく。いつも突っ張ったままのこの指が器用に動かすことができれば、マーシュを抱えて守ってやることもできるのに、腕の中で丸まって、風が行過ぎるのを待ち続ける友人に、砂避けの屋根を作ってやることも出来ない。
「その腕、どうしたんだ?」
「生まれつきだよ」
 砂を吸い込みそうになり、思わず咳き込みながら答える。
「僕はまだ軽い方。運が悪いと全身が痺れたまま生まれてくる子供もいるんだ」
 ソーレンが不自由なのは右の肘から下の部分だけだった。腕を動かすことはできたが、指先までは器用に動かない。
「村ではよくそういう子供が生まれるんだ」
「きっと、毒草のせいだろうな」
 マーシュはぴくぴくと耳を動かした。
「動物の中にも、そういう子供が生まれるのを見たことがある」
「そういう子供はすぐに死んでしまうよ」
「じゃあ、おまえは運がいい」
 動かない右手のために、なんでも左手だけで行えるようにと訓練してきたおかげで、この腕を持ったことを苦にしたことはなかったけれど、村人の目から見れば役に立たない子供だったことだろう。男手として力仕事をすることはならず、女手として器用なこともできないのだから。
「僕が生きてこられたのは両親が守ってくれたからだけど、僕が出て行くと言っても、彼らは止めなかった」
「そんなもんだよ。みんな生きるのに精一杯なんだ」
「うん。分かってるよ。だから・・・」
 もしもこの手がもっと器用に動いたらな、と時々そんなことを考えては、自分の不自由さを呪ったりもした。誰の役にも立てない自分の手に、噛み付いてやりたいと思うこともあった。そのたびに、もどかしさも悔しさも全部飲み込んでこう思うことにしたのだ。
「だから、雲の塔へ行くんだ」
 そして、雨を降らせてもらおう。それくらいには、村のために何かの役に立ちたいと。

嵐がやむと、一人と一匹は再び東へ向かって歩いた。いつしか、街道は一本ではなくなり、ずっと南のほうから、または北のほうから延びてきて、一本に合流している地点をすぎた、倒れた看板の残骸が転がっていて、東を指す矢印に“塔”と記されているのをソーレンは見ることが出来た。
「やっぱり、雲の塔はあるんだよ。マーシュ。やっぱり、伝説は正しかったんだ」
「あぁ、よかったな」
 もうどれくらい、村から離れてしまったのだろうか。ふいにそんなことを考えて、ソーレンは呆然とした。もう二度とは戻らないと思っていた。きっと戻ることはできないと。けれど、その場所まで来てしまったのだと知ったら、突然に離れた距離が恋しくなった。
 ついさっきまで雲の塔への道を知り喜んだ心に、不意に差し込んだ冷たい感覚は、あっという間にソーレンの体を支配してしまう。ずきりと突き刺さる寂しさに、我知らず涙が溢れてくる。
「ソーレン?」
 街道の合流地点の真ん中にうずくまったソーレンは、声を上げて泣いた。寂しかったのではない、孤独だったからでもない。両親に捨てられ、村から追われ、それでも彼らを憎まずにここに立っている自分がいることが、嬉しくて悲しくて。
 生まれて初めて、ソーレンは泣いた。我を忘れて、天高く響く声を上げて、泣き続けた。

 風で舞い上がる砂埃が減り始めた。空気は水気を帯び、青い匂いがかすかに香る。
ある日の朝、ぼんやりとけぶる街道の風景の向こうに何かが見えた。気がついてみれば、街道の少し先から下り坂が始まっているようで、その先は開けた平野になっていた。そしてその先に。
「マーシュ、見て」
 ソーレンが指差した先。思わず駆け出したその先に見えたのは、たしかに塔だった。砂の霧の向こう側。それははっきりと見えた、天へと聳える雲の塔。

 雲の塔は、その名の通り、塔のテッペン部分に雲が集まった奇妙な姿をしていた。ソーレンは、雲というふわふわしたものが、これほど低い位置に漂っているのをはじめて見た。空の上を流れていく雲は皆、遠く浮世離れした所にぽつんと見えるだけだったのに、塔の上に集まった雲は、まるで王冠のように、集まったままそこに浮かんでいるのだ。
「あれが、雨雲だよね。きっと。水の匂いがするもの」
「まさか、本当にあるとはなぁ」
 マーシュはぽつりと呟いて、とてもとても高い塔を2人して見た。塔の最上階は雲の中にあってほとんど見えなかった。白と灰色が交じり合った柔らかい雲は、塔を飲み込もうと大きな口を広げ、ぐおんぐおんと泣いているようだった。
「誰がこの塔を作ったんだろう」
「さぁ。魔女に会ったら聞いてみたらいいじゃないか」
「魔女よりも古いかもしれないよ」
「まるで、どこからから降ってきて、何もない場所に突き刺さったみたいだな」
 すべての方向から伸びた街道は塔に向かっていた。ソーレンが知らない遠くからやってきた街道。彼が歩いてきたのと同じ、深い轍に彩られた様々な石の道の終わりは雲の塔だったのだ。
 塔に近づくにつれて、石の遺跡がたくさん現れた。遠い昔そこに大きな街があったのだとマーシュは言った。きっとたくさんの人が暮らしていたのだと。
「皆どこかへ行ってしまったんだ」
「どこへ?」
「もしかしたら、おまえの村の人々もココから逃げた奴らなのかもな」
「どうして・・・?」
 言いかけた時にはもう、街道の執着点にたどり着いていた。
 雲の塔は、想像していたよりもずっと大きくて、まるで壁のようだった。一回りの大きさだけで、村と同じくらいの大きさがあるのではないかとソーレンは思った。窓はなく、石をどこまでも積み上げた壁だけが続き、巨大な門が一つだけ、硬く閉ざされたまま長い時を待ち続けていたようだった。
 ソーレンは恐る恐る扉に触れてみた。ひんやりと冷たい感覚は、しかし奥底で脈打つように彼の手に伝わった。扉はすっと魔法のように動いた。あまりにもすんなりと動いたものだから、驚いて思わず逃げ出す所だった。足元のマーシュもまた息を飲む。
 何百年もの間、だれも訪れることのなかった扉。硬く閉ざされた雲の塔。ソーレンはごくりとツバを飲み込んで、マーシュとともに、その内部へと歩き出した。

 窓がないのだから、塔の内部は真っ暗なのではないか。目を瞑ったままだったソーレンが、恐る恐る目を開いたとき、しかし目の前に広がったのは暗闇でも、重苦しい石の重圧でもなかった。  そこにあったのは、緑。ただひたすらに緑。そして目に眩しい色とりどりの花。足元は苔蒸し、這い回る根によって踏み場はなく、塗れた匂いがわぁっと体中を包み込む感覚に、ソーレンはただ驚いて、恐ろしくて、その場に立ち尽くした。そこには塔の中であるはずなのに、森が広がっていたのだ。 「なに・・・これ?」  塔の中なのに。壁には窓さえなかったにも関わらず、木々の間からは木漏れ日が差し込んでいた。突き刺すような厳しい日差しではない。なにもかもを包み込む温かい光だ。その眩しさに、一瞬目が眩み、ソーレンは思わず尻餅をついた。
「ここはどこ?マーシュ」
「塔の中…なのか?」
 ソーレン同様、呆然と立ち尽くしたマーシュは手近にある草に花を寄せた。水の乏しい砂漠に生える細長く分厚い葉ではなく、燦々と降り注ぐ恵みを一心に受けようと開いた大きな葉は、毒の匂いがしない。マーシュはぴくぴくと髭を動かして、ぱっと身を翻した。
「こんな植物をオレは見たことがないぞ。ソーレン」
「見て、マーシュ」
 バサバサっと音を立てて頭上で何かが飛んだ。鳥だった。カラフルな色の羽根を広げ、右から左へと飛んでいく。だが、飛んでいるのは鳥だけではなかったのだ。その向こうに見えた青く煤けた空の中を泳ぐ魚。ソーレンは、水の中を泳ぐ生き物をはじめて見た。
「どうして、この塔の中にだけ森があるの?」
 呆然と辺りを見回してばかりのソーレンの目の前で、大地が動いた。塔の中なのだから、大地と呼ぶにはおかしいかもしれないけれど、確かに、ついいましがた樹が生い茂っていた場所が、ごとりと音を立てて持ち上がり、大きな口を開いたのだ。
「人の子か」
 ゆっくりと瞳が開かれるのを見た。晴れ渡った空よりもなお青い大きな瞳は、ソーレンの頭ほどもあり、開いた口は彼を飲み込むのに十分な大きさを持っていた。声の主は巨大な爬虫類のようでいて、しかし、体中に樹木を生やした巨大な竜だった。
 口元には苔が、背中から尻尾にかけては蔦と根が、両手足には花が覆い隠し、突然動いた竜に驚いた無数の鳥が、真っ先に空へ向かって飛び立って行く。森の竜は、眠っていた体を震わせて大きな欠伸をした。何かが腐りきった腐臭交じりのため息とともに。
「待っていたのだ、人の子が訪れる時を」
 竜は朗々とした声でそういった。ほとんど、岩が話しているかのように聞きとりづらい。
 恐れを喉の奥へと飲み込み、ソーレンは竜の前に立った。マーシュもまたそれに従う。
「ソーレンといいます。あなたの名は?」
「グロー」
「僕は、雲の塔に住む魔女に会いに来たんです。お願いがあるんです。僕の村に雨を降らせて欲しい。荒野にも。水がないと、世界は死んでしまうんです」
「彼女もまた死んだ」
 森の竜グローは、重々しい声でそう告げた。
死んだ?一瞬その言葉の意味を理解することができず、ソーレンはふと足元のマーシュを見下ろす。長い長い間共に歩いて旅をしてきたというのに、この場所に、目的の人はいない。それはどういうことだろう?ふいに喉の奥がひりりと痛んだ。
「今は、私の中で眠っている。彼女は戻らぬ。疲れたのだ。この世を守り続けることに」
「そして、世界も死んだの?」
「如何にも」
 ソーレンの足からふっと力が抜けてしまった。柔らかい草の上に体が崩れ落ちて、その場から動き出せない気がした。あぁ、何もかもが無駄だったのだ。村の人々が苦しみながら生きながらえてきたことも、ソーレンとマーシュの旅も、雲の塔の魔女は残酷にも死んでしまっていた。望みは消えたのだ。
「ソーレン?」
 溢れ出してきた涙を悼むように、マーシュがそっと鼻先を寄せる。細く長い髭がくすぐったくて、なんだか苦しい。何の意味もなかったのだとは思いたくなかった。枯れ果てた大地を抜けてたどり着いたこの塔には、見たこともない植物や動物が生きているというのに、外の世界だけが死んでいくなどと考えたくなかった。人は遠のき、街は消え村は消え、一体人々はどこで生きていけばいいというのか。きっとこのままでは、村も滅びてしまう。人は死んでしまうのだ。
「せっかくここまで来たのに、マーシュ。僕は馬鹿だね。何を期待してたのかな」
「おまえはよくやったよ。ここまで来れたんだ」
 竜は厳かに2度瞬きをすると、再び大きな欠伸をした。その動きはとてもゆっくりとしていて、時の中に置き去りにされたまま引き伸ばされた成れの果てのようだった。
「人の子よ。彼女もかつては人の子だった。おまえと同じ。世界を救うために、この塔へとやってきたのだ」
 グローはゆっくりと、言葉と言葉を不可思議に区切りながらそう言った。
「彼女もかつて泣いた。己の無力さを呪って。だから、ここに残ったのだ。おまえはどうだ?」
「え?」
「この塔を動かす魔法は、人の子にしか使えぬ。私ではダメなのだ。そこにいる小さな生き物でも。生き残りの誰一人として、この塔を動かすことはできぬ。人の子でなければ」
「僕は魔法なんて知らない」
「それでも構わぬ。彼女もかつてはそうだったのだ」
 そう言ってグローは大きく体を揺すった。生い茂った木々がなり、ぱきぱきと音を立てて、枝が折れ葉が落ちたけれど、彼は一向に気にもしない。 「時は繰り返す。私を作った者はそう言った。私はここで待ち続ける、次の魔法使いを。それがおまえならば、この塔を動かし、世界を救うこともできよう。雨を降らせ、種をばら撒き、生き物を作り、いくらでも再生できよう。この塔はそのために作られたのだ」
 ソーレンはそろそろと立ち上がった。その様子をマーシュは不安げに見つめ、気遣うようにソーレンの肩に乗ったけれど、少年は気にも留めなかった。彼には、それよりもグローの話が気になったのだ。魔女でなくても塔の力を使うことができるかもしれないと。
「それは僕にもできる?」
「如何にも。しかし、代わりにおまえは時を失う」
「時?」
「悠久の時をこの塔と共に過ごさねばならぬ。それはとても苦しいことだと彼女は言っていた。だから、彼女は捨てたのだ。かつて救ってやった世界を、見捨てたのだ。それほどに、彼女は苦しんだ。おまえはどうだ?」
「ソーレン、やめろ!こんな話、聞くんじゃない」
 耳元でマーシュが言った。思わず、友人の小さな耳を噛むような勢いだった。これは罠だと、小さなフェネック狐には分かっていたのだ。これは雲の塔の罠だ。彼を永遠にここに閉じ込める気なのだ。甘い蜜を持つ花と同じに。
 その時ふいに、雲の塔の孤独を理解したような気がした。ソーレンやマーシュと同じだ。長い長い時の中を塔は待ち続けてきたのだ。きっと。時に置き去りにされたたまま、忘れ去られるのは寂しすぎた。
「ソーレン。ここにいちゃダメだ。彼の話を聞くな。ソーレン!」
「ごめんよ。マーシュ」
 だが、友人が答えた言葉はたったそれだけだった。
 ソーレンは両手に収まるような小さな友人をそっと抱き上げると、もう一度その翡翠色の瞳を覗き込み、そしてそっと足元に置いた。思わずその手に爪を突きたてようとしたマーシュの思いは、しかし、ソーレンの小さな笑顔の前では無力で、塔と同じだけの孤独を抱えてきた少年の願いを踏みにじることなどできはしなかった。
 たとえ、自分自身がその小さな体の中に、同じ暗闇を抱えていたとしても。自分だけが置き去りにされるのだと分かっていても。マーシュには、ごめんと言ったソーレンを引き止めることなどできなかった。
「なんだよ。ずっと一緒だと言ったじゃないか」
「うん。だから、ごめんね。マーシュ。でも、僕にはやらなきゃいけないことがあるから」
ソーレンが残したたくさんの言葉。マーシュへの温もり。不自由だけれど優しい手。全部全部投げ出して、彼は竜の元へ行ってしまった。
「もしも、僕が魔法使いになってしまったら、もうこの塔からは出られないの?」
「如何にも。二度と、出ることはできない」
「マーシュは?」
「好きにするがよい」
「そうか。ありがとう」
 誰かのために生きたいと願ってきたソーレンにとって、その選択が唯一、何かの役に立つたったひとつの選択となった。
「最後にお願い聞いてくれるかな?」


 その日の夜。ソーレンにとって一番下の妹が生まれた。兄とは違い、健康で丈夫な体をもって生まれた娘に、両親は兄と同じ名前を与えた。
 そして、空には緑色の竜が飛び、新たな魔法使いの訪れを告げたのだった。

 荒地の果てにある雲の塔には、心優しい魔法使いが住むと言う。