いつかは消える

 カーテンをくぐると、むっとした甘ったるい香りが空気に押し出されて足元へと流れ出してきた。目にしみる煙に曇った視界は薄暗く、ぼんやりと見える赤と緑のランプの炎の中に、一人の男が物憂げに顔を上げた。
「やぁ。珍しいお客が来たね」
 無精髭を生やした男は、ゆっくりと手を上げて気安い様子で挨拶をする。その指先のパイプの銀飾りが、きらりと光るのを見ながら、アルファはカーテンをくぐって、小さなテントの中に足を踏み入れた。
「何年ぶりかな?君が僕に会いに来たのは?」
「さぁね…。もうずいぶん経つかな」
 男はくつくつと笑って、パイプを深く吸い込んだ。あたりに立ち込めた無数の香炉から立ち込める薬草の匂いもさることながら、甘ったるい鼻につく煙は、彼のパイプから発生しているものらしかった。アルファは、これ見よがしに咳き込みながら、男の前に置かれた簡素な机と向かいになった椅子に座ると、はぁと一息ついた。
「おまえを見つけるのは、まったく至難の業だな。砂漠を5日も歩いてきたよ。噂というのは、おまえを捜すのにまったく役に立たないな。しかし、それしか手がかりがないときた…」
「それは難儀なことだ。申し訳ないね。僕は、君よりも気まぐれなんだ」
「私より、気まぐれな人間が他にいるとは思わなかったよ」
 旅の鞄の中から自分のパイプを出すと、アルファは机の端に置かれた金細工の小箱からジャフ煙草草を無遠慮に拝借した。どうせここには、上等なジャフ煙草がたくさんあるのだ。どこから買い込んでくるのやら、広大な砂漠をどこへともなく放浪しているくせに、この男がジャフ煙草を切らしたところを見たことがない。
 何も言わずに、ゆっくりと煙を吐き出せば、よりいっそう目の前の空気が濃くなったような気がした。ほんの短い距離にあるはずの、男の顔が煙にかすみゆらゆらと揺れる。もとから、そういう男だ。
「おまえの煙草は美味いな。シェザ」
「はは。君が僕の名前を覚えていてくれたとは、光栄だな。魔法使いアルファ」
 男―シェザはくつくつと笑った。砂漠の日光と、特有の香炉のおかげですっかり色の抜けてしまった灰色の髪がかすかに揺れる。それさえも煙と同化しているように見えた。赤っぽい目だけが、ぼんやりと煙の中に浮かぶ。それだけが、彼の存在を主張しているようだった。
「不思議だな。僕が最後に君に会ったのは、もうずいぶんの前だ。僕が逃げ出した時だったかな。あいかわらず、君は変わらないな」
「それは、おまえも同じだと思うがね」
「あぁ、そうさ。そうやって、君に創られているんだから」
 アルファはひとつため息をついて、今更ながらこの男に会いにくるのではなかったと思った。彼を放っておくことだってできたのだ。
 無言のまま、もう一服。しかし、シェザは咎めるわけでもなく共に煙草を吸いながら、その沈黙を楽しんでいるようだった。
「それで、魔法使い殿が何のようかな?僕のような占い師に」
「実を言うとね。私はずいぶん長い間、おまえを捜していたんだ」
「そうか。うん。まぁ、そうだろうと思っていたよ」
 軽い調子で答えるシェザ。赤と緑に燃えるランプの光がひどく頼りない。まだ昼間だというのに、テントの中はなんとくらいのだろうか。
「実を言うとね。僕は、君から逃げ続けていたのさ。どうしてだと思う?」
 答える代わりに、アルファはシェザの赤っぽい目を見つめた。何一つ偽りのないその笑顔が恐ろしいほどに、胸を不安にさせる。
「君が、僕をまた閉じ込めにくるだろうと分かっていたからだよ」
 言うが早いか、目の前が曇るのが早いか。とっさに立ち上がったアルファの足元で折りたたみ式の椅子が転がるその中で、むっと熱い煙が体を覆い隠そうと広がっていく。濃厚で甘ったるいそれは、ジャフ煙草の煙に似て、しかし非なるものだ。
「シェザ!」
 アルファはローブを翻し、体を覆い隠す煙を払おうとした。手にした杖を振るい魔法を発動させる。体の回りに風を発生させることなど彼にはたやすいことだったから、一瞬、アルファの体を覆う煙は払われたように見えた。狭いテントの中に風が満たされすべてを吹き飛ばすように、カーテンがはためく。
「あぁ、なんてことをするんだ」
 風の向こうから聞こえる声。しかし、煙を蹴散らした中にシェザの姿はない。舞い上がる風の中、煙だけが残されていた。
「僕の大切な砦を」
「おまえは、狭い空間の中でしか存在できないからな」
 アルファの言葉に、シェザはまたくつくつと笑ったようだった。煙を身とする男は、風の中に紛れ、同化し、そして消えていった。風が収まり、再びテントがその形を取り戻し、内側に闇を内包する頃には、アルファ一人がその場所に残された。
「やれやれ。逃げられたか・・・」
 彼は、旅雑嚢の中から小さな香炉を取り出し、先ほどまでシェザが座していたテーブルの上に置いた。凝った装飾を施した古い香炉の中には何もない。かつて、その中に閉じ込めておいた男は、魔法使いを欺きやがてその中から逃げ出してしまったのだった。追いかけようとも、煙の中に逃げ込んでしまう男を、捕まえることは難しい。アルファは、己の探索行が無為に終わってしまったことにため息をつく。
「また見つけ出すのに、時間がかかりそうだな」
 倒れた椅子を立て直し、アルファは一人きり残されたジャフ煙草を一服吸い込んだ。