風の巨人の話

 その平原には何一つ遮るものはなかった。
 低い丘から広がる、ひたすらに広い平原。切り開くにはあまりにも広く、この場を臨むには、人里はあまりにも遠すぎる、人々はこの土地を捨てて出て行ったきり久しく、この平原の本当の名前を知る者はいなくなってしまった。
 だが、アルファだけは知っていた。
「さぁ!シグマ、こっちへおいで!」
 いつになく軽やかで、興奮した口調のアルファは、丘の上に立って一杯に手を広げていた。長いローブが風にはためき、大きな翼のように広がっている。
「どうしたんです?突然・・・」
「見てごらん!シグマ。空を」
 小さな黒猫が空を見上げると、早足に駆けていく子羊のような小さな雲たちが、真っ青に抜けるような空の中を泳いでいくのが見えた。
 ざぁと強い風が吹き抜け、子猫は柔らかい地面にしっかりと爪を立てた、そうしなければ吹き飛ばされそうだったのだ。
「さぁ!シグマ、こっちへおいで!」
「一体、何をしようというのですか?」
 風がようやく治まるのを待って、シグマは早足に魔法使いのところへ走っていった。器用に前足を使い、アルファの鞄の上に飛び乗ると、もう二度と飛ばされないようにとしっかりと爪をひっかけた。
「もうすぐ、風の巨人がやってくるんだ」
「風の巨人?」
 再び、ざぁと強い風が吹き抜け、低い草も高い草も音を鳴らした。そばに高い木があったのならば、その葉はあっというまに吹き飛ばされて、緑色の嵐となったことだろう。だが、この場所に木はなかった。
「そうだ。風の巨人に背を押されれば、空も飛べるだろう」
 アルファは得意げにそう言って、一杯に風を受けられるようにローブを広げる。
「アルファ!本気で飛ぶつもりですか!?」
「もちろん!魔法使いの夢は、いつでも空を飛ぶことなのだよ」
 その時だった、背後のずっと遠くで、何か大きな怪物が鳴いたような声が聞こえた。はっとして振り返るシグマは、しかしそこに何もない丘を見ただけだった。
 だが、その巨人はたしかにそこに居た。のそりと立ち上がり、ゆっくりと呼吸する。ざぁと大気が揺れ動き、吸い込まれるような逆風がシグマの黒い毛並みを乱した。
 風の巨人は立ち上がった。周りにあるものすべてを巻き込んで、その姿は確かに見ることができた。ぼんやりとした輪郭の中に、巻き込まれた遠くの木の葉やゴミや見たこともない生き物たちを内包しながら、巨人はこちらに近づいてくる。
「アルファ!!巨人が・・・!!」
「さぁ、シグマ。しっかりとつかまっているんだよ」
 嬉しそうに笑い、アルファは大きく息を吸い込んだ。その仕草はまるで風の巨人のようで、はためくローブを翼に変える呪文のようだった。
 巨人の不可視の手がそっとアルファを撫でる。そして、そっと吐き出される息が、彼の宵色の髪を乱す。ごぉぉおと耳を聾する風の音。アルファは、丘を駆け出した。
 風の巨人は、アルファを追いかけてきた。大きな手で魔法使いの体を包み込み、あっという間に彼は、巨人の体に内包する数多の記憶の欠片の一部と化していた。軽く地を蹴り、空へと飛び上がる魔法使いの体を、巨人は軽々と持ち上げて地上から浚っていく。
「シグマ!見てごらん!!」
 ローブと魔法の翼を広げ、アルファは笑った。地上ははるか眼下に広がり、彼は空を飛んでいた。風の巨人がそうであるように、風の中を歩き、風の中で呼吸する。緩やかに手足を伸ばす。不思議と吹き荒れる風の中を飛ばされることはなかった。自分の体の中に入り込んだ風変わりな魔法使いを、風の巨人は守っているようだった。
「地上があんなにも小さく見える」
 アルファに答える余裕などなく、シグマは振り落とされないように、鞄にしがみついているのが精一杯だった。
「なんて、不思議な眺めなのだろう・・・。私が空を飛んでいる」
「着地できなければ、意味がないでしょう!!」
 子猫は、必死に叫んだ。
 風の巨人は緩やかに速度を落とし始めていた。草原では巨大であったその姿も、麓へ向かうにつれて、輪郭を失いながら滑空していく。体の中に吸い込まれたものたちはしだいに巨人を離れ、次々と落下していった。
 アルファたちが風を失い落ちるのも時間の問題だろう。
 再び、ごぉという音が耳元を掠めていった。その風切の音の中に、アルファはたしかに声を聞いたような気がした。それは風の巨人の声であり、はるか遠くから旅してきた、大気の声だった。
 古き魔法使いよ。風と共にはるか遠くへ飛んでいくがいい。
 風はそう言った。
 そして、ゆるやかに弱まりながら、森の中に巨人は倒れた。空が唸り、雲が千切れ、森の木々が悲鳴を上げる中へと、アルファとシグマは落ちた。体を丸くして衝撃を和らげたアルファは、小さな子猫を腕の中に抱えて、くるくると地面の上を転がりながら、形を失って消える風の巨人の最後の一息を感じた。
 風の魔法は死にはしない。呼べよ。我らがはるか風の名を。
 そうして、風は去っていった。
 ぼんやりと、土の上に寝そべったままアルファは木々の間から空を見上げた。木漏れ日の中に見える青い色は、ついさきほど平原で見た色と変わらず、透き通り優しく魔法使いたちを見下ろしているようだった。
 一緒に飛ばされた木の葉まみれになった体は風の匂いがした。どこまででも行けそうな、遠い匂いだ、とアルファは思った。

  その平原には何一つ遮るものはなかった。
 低い丘から広がる、ひたすらに広い平原。切り開くにはあまりにも広く、この場を臨むには、人里はあまりにも遠すぎる、人々はこの土地を捨てて出て行ったきり久しく、この平原の本当の名前を知る者はいなくなってしまった。
 だが、アルファだけは知っていた。
 忘れられた平原の名は、風の巨人という。