鍵の囚人の話

 魔法使いの街は、古い城壁によって外の世界から守られている。歴史の授業の中では、この城壁は大昔の大きな戦争から街を守るために創られたのだと教えられる。ルウやセトが勉強する魔法院の建物もまた、長期の戦争を戦うための要塞だったのだ。
 城壁は、魔法使いの街を外敵から守るために創られた。今となっては、その魔法の城壁も少しずつ崩れ始めていて、一部は穴が空き、完全な防御策ではなくなってしまったけれど、それでも、魔法使いの街へとやってくる旅人にとっては容易に入ることを許さない、強固な壁であることに変わりはなかった。
 大きく石造りの城門には、マーという門番がいる。
 マーはこの街に残る数少ない魔法生物の生き残りであり、城壁の守護者にして、城壁そのものといってもいい、頑固で石頭な馬だった。城壁の上に突き出したマーの首は、門へ入る者も門から出る者も等しく頭上から見下ろし、そこを出入りする者を見張っている。彼の審判は絶対であり、彼の前では何人たりとも、門を出入りすることはできない。


 何の面白みもない、退屈な午後の授業を打ち破る悲鳴は、石のこすれる不快な音と、命のない恐ろしく甲高い音が交じり合ったような、ぞっとする声だった。
 突然のこの悲鳴は、街中に響き渡り、ルウもセトもごく当たり前の普段の教室の机の前で、気持ち悪くなるような悲鳴から耳と頭を守るために、必死に両手で耳を塞いだ。
「な・・・なんだよ!!」
 一瞬、頭の中が真っ暗になったような気がした。もしかしたら真っ白だったかもしれない。体中がぎゅっと膠着して、何もかもが内側に押しつぶされるような気がした。
 悲鳴はすぐに止まった。だが、教室も街中も騒然となったのは言うまでもない。
 ルウは、すぐ隣に座っていたセトを見た。親友は今の悲鳴のおかげで頭痛がひどくなったらしく、顔をしかめて右側頭を軽く叩いていた。
「なんだ・・・?今の?」
「分からない・・・。すごい音だったけど」
 クラスメイト達は、困惑顔で辺りを見回し、窓の外を見てみれば、街の人々もまた驚いた様子で家の外へ飛び出している。
 地震が起こったみたいだ。とルウは思った。大地が怒って暴れるのが地震だとアルファが教えてくれたのを思い出したのだ。実際、ルウは地震を体験したことはないけれど、大地が激怒する前に悲鳴を上げるのだとしたら、こんな感じだろうか。
「皆さん!落ち着いて・・・慌てないでくださいね。ちゃんと席に座って・・・」
 しどろもどろに指示を出すイルス女史の方がよっぽど焦ってるな、とルウとセトは顔を見合わせて笑った。まだ新任の文字学教師は、生徒たちが落ち着くのも待たず、逃げるように教室を出て行った。様子を見てくるわと言い残していったけれど、どちらかというと、自分を助けてくれる誰かを探しに行くという感じだった。
 そんなわけで、その日の残りの授業は、自由時間になった。そのまま、イルス女史は戻ってこなかったし、他の教師も戻ってはこなかった。驚いたことに、生徒達の監視役を勤める、シィとタァの姿も見えないとなれば、生徒達の行動はだいたい決まる。ルウとセトはこの奇妙の午後休の原因となった恐怖の悲鳴について語り合いながら、帰り支度をした。

「僕は何かの前触れじゃないかと思うんだ」
 学院からの帰り道、ルウとセトは並んでアリューシェ通りを歩いていた。セトは自分の自転車を引いていたが、乗ってはいない。
 魔法使いの街は、珍しく落ち着きをなくしているのだ。ちょっとやそっとのことでは驚かない魔法使い達でさえ、何が起きたのか、その真実を知るために右往左往している。
「何か悪いことが起こるかもしれない・・・」
「そんなの、先読み師が占ってるさ。星読でだって、変な兆候はないって昨日新聞に出てた」
 セトが世間のニュースやら噂に詳しいのは、毎朝、ルウが目を覚ますよりもずっと早い時間に、街中を走り回って新聞を配る仕事をしているからだった。配達の合間に紙面を読むのは、セトのささやかな楽しみの一つなのだ。
「でも、先読み師だって万能じゃないんだ」
「それは言えるけどな。じゃ、何が起こるって言うんだ?ルウ。海の方から大津波と一緒に怪物がやって来るとか?」
「海の怪物は、30年も前にゴートが殺したって、いつも話してるよ」
「そんなの作り話さ」
 ふんとセトは鼻を鳴らして笑った。
 燈台守のゴートは元漁師で、少し東の方へいった小さな漁村に住んでいたころ、見上げるような巨大な魚の怪物と戦ったのだと、いつでも同じ武勇伝を語ってくれる。小さいときは何度聞かされても変わらない、その同じ物語をルウもセトも飽き飽きするほど、聞かされてきたのだ。
「じゃ、何が来ると思う?セト」
「何も来やしないって・・・。どっかの誰かが魔法に失敗しただけさ。きっと、失敗した魔法は西のイバラ平野の向こうにある、迷いの森に捨てられるだけだよ。で、何もかも元通り」
「こうして、早退できるのも今日だけか・・・。つまらないね」
 言いながらルウが壮大にため息をついた時だった。
 ひょいっと目の前を横切った小さな黒い塊に驚いて、ルウもセトもあっと声を上げる。セトは危うく自転車を放してしまうところで、慌てて掴まなければ盛大な音を立てて、この金属の原始的な乗り物は魔法使いの街の大動脈ともいえるアリューシェ通りの石畳に叩きつけられていただろう。
 目の前に現れたのは、真っ黒な肢体の猫だった。
「おや。小さな魔法使い達も見物ですか?」
 黒猫シグマは、ニコリともせず涼しげに髭を震わせて言う。
「脅かすなよ!危うく、自転車を壊すところだったじゃないか!」
「前を良く見て歩きなさい。小さな生き物でも踏まれれば痛いものなのですよ」
 セトは明らかに不機嫌そうに、この喋る猫を見つめた。その横でルウは、くすくすと笑う。シグマはいつでも涼しい顔をして、誰かをからかうのが好きなのだ。
「シグマ、何を見に行くの?」
 ルウは猫の前にしゃがみこみ、色の違う魔性の瞳を覗き込みながら問いかける。シグマの眼は紺碧と金色をしている。
「マーの城門ですよ。あなたたち、知らないのですか?」
 ルウとセトはそろって首を振った。
「さっきの悲鳴は、マーの悲鳴なのだよ」
 ふいに、シグマが飛び出してきた路地から声が聞こえ、ルウもセトも驚いてそちらを振り向いた。薄暗い細い路地からぬっと現れた人物は、いつもと変わらない、至極楽しそうに笑顔を浮かべてルウとセトを見下ろした。
「ここぞとばかりに逃げ出してきたと見える。賢い子たちだな。こんな日には、学院の窮屈な机に座っているよりも、見物に出かけた方が、よほどためになる」
「アルファ!」
 いつでも持っている細く長い杖をくるくると廻して、石畳にトンと付くと、アルファは魔法使いらしく、にやりと笑った。その足元には、シグマがきちんと座っている。そこが彼女の定位置なのだ。
 魔法使いアルファは、恐ろしく長生きな魔法使いで、だれも彼の本当年齢を知る者はいなかった。もしかしたら、本人でさえ忘れてしまっているのかもしれない。この街で、最も古い魔法使いの一人であり、最も強い魔法力を持ち、誰よりも豊富な知識を持っている。彼の行動は自由気ままであり、ほとんど自分の屋敷から出てくることはないのだが、こうして姿を現したのだから、彼によほど面白いことが起こっているのだろう。
「マーの悲鳴だって?どうしてそんなこと・・・」
「良い質問だ。セト」
 セトの質問を遮り、アルファが言う。その足はすでに前に向かって進み始めており、ルウとセトは彼の後ろについて歩いていく。
「マーの意志でなければ開くことの出来ない、堅く閉ざされているはずの城門が開かれたのだ」
「城門を開くって・・・マーが開けたってこと?」
「いいや」
 アルファの物言いは、とても面白そうだった。それはどんな些細なことでも楽しむ、この古い魔法使いの悪い癖だった。
「マーの城門は、無理矢理こじ開けられたのだ」
 アルファは、さらりとそう答え。ルウもセトも驚きの声を漏らす。
「そんなの無理だよ!」
「あの城門は、魔法のかかった石造りなんだ!そんなの、マー以外の力で開くはずがないよ」
 強固に守られたマーの城門を開くには、マー自身の意思が何よりも必要であり、それ以外に開く方法などないのだ。それを無理矢理開けようなど、無理な話である。魔法生物であるマーを作り出した魔法力よりも、さらに街を守り続けてきた城壁の力よりも強い、得たいの知れない動力が必要なのだ。
「そんなこと・・・できるわけない。そうでしょ?アルファ」
「どんな魔法にも、打ち破る方法はあるのだよ」
 アルファは静かに答えた。
「だが、あの城門が無理矢理開けられたのは初めてのことだろう。かつての大戦の時でさえ、あの城壁は街を守り抜いたのだ。それは、とてつもなく昔のことだよ」
「あの門を無理矢理開けて入ってきたってことは・・・」
 はたと思い当たったらしく、セトは珍しく引きつった顔でアルファを見上げた。肩越しに振り返った偉大な魔法使いは、にやりと笑う。
「その者が敵なのかどうか。それが問題だな」

 伝説の魔法大国イシュメイヤが、城壁の外の世界と戦争をしたのは、1000年以上前のことだ。その頃、魔法使いの国はもっとずっと広く、大陸の半分近くを支配していたと言われるが、外敵の侵攻は激しく、魔法使いたちはどんどんと南へ追いやられていった。それと同時に、国を守ってきた城壁もまた小規模になり、国境線は南へ下った。
 戦争が終わり、残された魔法使いに与えられた国土は、街一つ分になってしまっていた。その頃の城壁が、今の魔法使いの街を守るマーの城壁であり、最後まで街を守り通した最後の国境線だった。
「では、おぬしは特に何の理由もなく、この城門を開錠したと言うのかね?」
「だから、なんどもそう言ってるじゃないか!」
 城門前にある広場の真ん中には、きっちりと正方形の古い木製テーブルが置かれており、今は閉じられたマーの城門を背にして一人の男が座っていた。
 他の3辺には、街の統治者である老人たちがついている。つまり、魔法院の院長で実質的な市長であるトバルカイン・ブラーフが男の正面に。右手には法廷院の長であるサルバドール・アレキシー。左手には守護院の長であり唯一の魔女であるアマンディーナ・ハンター。街の三賢者がこうして顔を揃えることは珍しいことだった。
「そんなことはあるまい!理由もなくこの街へやってきたのならば、城門の主に、開錠の問いをすればいい。無理矢理開ける必要などなかったはずだ!」
 鋭く攻撃的な声でサルバドールががなりたてた。思慮深く冷静であるべき法廷院長は、三賢者一血の気が多く気性が荒いことで知られている。アマンディーナが制しなければ、外からやって来た奇妙な男に掴みかかるところだっただろう。
「門を開けることが意味があったんだよ!」
 男は勇敢にもサルバドールに堂々と言い返した。
「何度もそう言ってるじゃないか!あんたらには耳もないのかよ。この老いぼれが!!」
 その侮辱の物言いに、テーブルを囲んでいる見物人の間から短い悲鳴が漏れる。その中に紛れて、会合を見守っていたアルファとルウとセトは、にやにやと笑った。
「言わせておけばいい気になりおって!!」
「お止めなさい。サルバドール。あなたが怒ったところで、どうにもならないでしょうに」
 仲裁役であるアマンディーナが静かに言う。見た目は老いぼれの名にふさわしい老女であるが、凛と響く気高い声は、壮年の凛々しさを称えていた。
「旅人よ。おまえは扉を開けることに意味があると言った。開けるためにここへ来たと」
「そのとおり」
 男は嬉しそうに答える。まだ年若く、血気盛んに見える旅人は、首に大きな鍵をぶら下げていた。よく見れば、ズボンの端にも、無数の形の違う鍵がずらりと並び、彼が動くたびにじゃらじゃらと音を立てている。
 どうやら、彼は鍵師らしい。
 アマンディーナは立ち上がり、城門の上に突き出した石の馬の頭を見上げた。そのそばには、同じく石で作られた魔法生物のタァとシィが控えている。もしも残り少ない仲間であるマーに何かあれば、すぐにでも鉤爪で飛び掛ろうと待ち構えているのだ。
「城壁の門番よ。おまえはどう思います?」
「私は、そいつを許しませんぜ。聞けば通してやったものを。無理矢理こじ開けられては、私の真価が疑われる。私は生まれてこの方、この城門を守り通してきたんだ。こんなただの人間(・・・・・)に破られるとは、許せることじゃありません」
「では、日々精進して城壁を守りなさい。大方昼寝でもしていたのでしょう」
 守護院長の物言いに傷ついたらしく、マーはゴロゴロと石の喉を鳴らした。
「トバルカイン。もはや時代は戦争の時とは違う。城壁が破られたからといって、それほど大騒ぎすることでもないでしょう。毎日、何人もの旅人がこの門をくぐるというのに、この者だけを追い返すのは、酷というもの」
「うむ・・・。しかしなぁ」
 男と正面で対峙したトバルカインは、皺の寄った眼を困ったように伏せ、白い髭と長い眉を一緒に撫でた。魔法使いの街で、事実上最長寿を誇る魔法院学長は、いつでも冷静な判断を下す高潔な魔法使いだったが、1000年も続いた伝統を賭けた決断となると、それほど簡単ではないらしい。
「城門を開ける鍵があるのだとすれば、それは我々にとって驚異となる。一部の魔法使いは、外部との接触を極端に嫌うのでな。旅人よ。この街へ自力で入ってきた以上、そう簡単に出て行くことはできないよ」
「それなら、この鍵はあんたたちに渡すよ。オレにはもう必要ないからな」
 そう言って、男は首にかけていた鍵をテーブルの上に置いた。その様子はあまりにもあっけらかんとしていたので、トバルカインは唖然とする。
「絶対に開かない扉だと聞いてここまで来たんだ。それが、思いのほかあっけなく開いちまった。だから、もうこの鍵はいらねぇよ」
 その鍵は何の変哲もない、錆びた鉄で出来たごく普通の鍵だった。大きな城門を開くために、その鍵もまた大きかったが、1000年間閉ざされてきた扉を無理矢理開くには、少々心もとないように思われる。トバルカインはその鍵を確かめるように掴み上げ、しばらく観察してから懐にしまった。
「これで、オレは自由の身かい?長老さんたち。始めて来た街なんでね。ゆっくり観光したいんだが」
「うむ。後は好きにするがいい。だが、これは一つ忠告だがね。魔法使いというものはとても保守的な生き物でね。街を騒がせたよそ者を好まんのだ」
 言いながらトバルカインは、テーブルを取り囲んでいた群衆をぐるりと見回した。いつの間にか野次馬はずいぶんと減り、物好きが残っている者だけになっていたが、その中には、アルファも、ルウもセトも残っていた。
 魔法院長はかすかにアルファを見、何か言いたげにうなずいたが、当のアルファは涼しい顔をして答えなかった。
「別に構やしないさ。どうせ、煙たがれるのはいつものことだ。気にやしないよ」
 そういって男が立ち上がると、三賢者もそろって立ち上がった。戸惑い顔のよそ者がどう感じたのであれ、それは公的な会合の終わりを告げる礼儀だった。
「では最後に。おぬしの名を聞いておこうか。旅人よ」
「好きなように呼んでくれていい。オレにはいくつも名前があるし、それが少し増えたからって、どうってことないからさ」
 そこで、渋顔だったサルバドールがにやりと笑う。
「魔法使いは名を最も大切にするのだ。おまえの名を明かさなければ、これより先、街へ立ち入ることは許さんぞ!」
「まったく・・・面倒な街だな。ここは」
 男は、ぼさぼさに伸びた金色の髪をかきながらため息をつく。
「ハーシュ。しばらくはその名で通ってる」
 奇妙な旅人は、足元に置いてあった自分の荷物を持ち上げて会合に踵を返した。その小さな荷物もまた、じゃらじゃらと鍵の擦れ合う音をたてていた。

「鍵師殿は、どこから来たのだ?」
 アルファが声をかけたとき、ハーシュと名乗った鍵師は、アリューシェ通りにあるショーウィンドウの前に立っていた。当然のことながら、その店は魔法使いの街で唯一の鍵職人の店で、店の主人は気味悪げに窓の外の異邦人を眺めているところだった。
「あんたは?」
「この街のほかの多くと同じく、私も魔法使いだがね。おまえと同じく嫌われ者だ」
 ふーんと鼻を鳴らしながら、ハーシュはしげしげとアルファの姿を物色する。街に住んではいても、常に旅装束を着ているアルファと、その足元で静かに観察眼を光らせている黒猫のシグマ。それに、アルファの後ろで控えめに隠れながら興味津々という様子の2人の少年。ハーシュは、その少年達をじっと見つめた。
「こいつらも嫌われ者なのかい?」
「いや・・・。この子達ははただ好奇心が旺盛なだけだ。嫌われてるわけじゃないよ」
「そうかい。まぁ、オレも嫌われ者が好きってわけじゃないんだ。こんな小さいのに嫌われてるんなら、かわいそうだと思っただけだから。気を悪くするなよ」
 悪びれもなく言うハーシュの姿は、ルウにもセトにも新鮮だった。
「で、あんたの名前は?魔法使いっていうのは、名前を大事にするものなんだろう?」
「うむ。私の名はアルファという。おまえのようにたくさんの名は持っていないが、とても大切な名だ」
「そうかい。オレはハーシュって言うんだ。これは、オレの師匠がつけてくれた名前でね。親がくれた名前は分からない。オレは孤児だから、生まれも家族も知らねぇ。でも一番気に入ってる名だ」
 ルウは、この旅人が持った無数の鍵に釘付けだった。ベルトの周りに並ぶ鍵束は大小様々、金属のものもあれば木製のものもあり、金や銀のものもある。ハーシュの太ももの外には小さな作業用パックが括り付けられており、それで鍵を作るのだとルウは思った。
 セトの方を見ると、彼もまた鍵の用途について考えているようだった。その無数の鍵でどんな扉を開けるのだろうか。決して開けられないと思われた城門を開錠したこの旅人が持ち歩く鍵で、一体何ができるのだろうか。
「それで、オレに何の用かな?アルファ。ここを眺めたら、今日の宿を探さなきゃならないんだ。ずいぶんと騒がせたみたいだからね、よそ者は歓迎されないだろうが、せめて雨を凌げる場所は欲しいんだ」
「それなら、私の家に来るといい。トバルカインは、おまえの世話をするようにと言いつけて来た。あまり人を入れるのにふさわしい家ではないが、同居人はこの猫だけだし、部屋は無数にある」
「それはありがたい申し出だ。それほど長居するつもりはないんだ。少し、見て周りたいだけだから。それに、この街を案内してくる物知りがいるとありがたい」
 ハーシュは、ルウとセトを見ながら、イタズラっぽく笑った。
「この街には、開かない扉ってのはあるかい?」

 旅人ハーシュをつれて、ルウとセトは街中を案内した。行く先々で、この奇妙な旅人を見つめる眼は鋭く敵意に満ちていたが、ハーシュは気にした様子もなく、飄々として2人の少年に話しかけた。
「この街は、ずいぶん古いんだな」
「魔法使いの街としては一番古いんだ。だから、城壁を開けただけで、皆あんなに慌てたんだ」
 今3人は、アリューシェ通りから下った旧市街から、新市街へと歩いていた。一時の混乱は収まり、街はいつもどおりの様子を取り戻していたが、どこかよそよそしかった。
「そりゃ、悪いことしたな。悪気があったわけじゃないんだ」
「じゃ、どうして無理矢理扉を開けようとしたの?」
 ルウが問いかけると、ハーシュは腰にぶら下げた鍵を一つ手に取り、くるくると指先で弄んだ。
「オレは、世界一の鍵師だってことを証明したいんだ。オレには開けられない扉はないって」
「それで、あちこちの扉を開けてる?」
「そういうこと!」
 手にしていた鍵をぽんと投げ、くるくると回転して落ちてきたその小さな銀色の鍵を手に取ると、ルウに手渡した。
「こいつは、エンダの古牢の錆びついた扉を開けるために作った鍵だ。ずいぶん前に滅びたエンダ王国は、王宮も街もなにもかも残したまま今は廃墟になってる。石の街には亡霊が住むって話だ」
「アルファが話してくれたよ。最後の戦王の話だ!」
 ルウが言うのに、セトはキツイ目つきで制した。セトは、アルファのことがあまり好きではないのだった。
「こっちの鍵は、ウンディーネの海賊船の船長室の鍵だな。船長が鍵をなくして難儀してたんで作ってやったんだ。それで、海岸沿いに船に乗せてもらって、この街の近くまで来たんだ」
「本当にたくさんの鍵を作ってきたんだね」
「そうさ。あちこちの街で、いろんな扉の鍵を作ったのさ。だが、どの扉も簡単に開いちまう。オレが苦労するような、頑丈な扉には出会ったことがないんだ」
 新市街の町並みは、旧市街の雑多で迷路のような路地とは違い、綺麗に整地された後に作られた街だから、静かで整った雰囲気がある。セトの家もこの近くにあるし、旧市街のアリューシェ界隈ならともかく、方向感覚に苦労しないルウにとっては、見慣れた場所だった。
 だから、セトがベルカーニの塔を目指していることにも、すぐに気がついた。
「どうして、開かない扉を探してるんだ?」
「可笑しなこと訊くね。鍵を開錠し、扉を開くのが鍵師の仕事だ。開かない扉なんて、あっちゃいけないだろ?」
 町並みの向こうに、細長い塔が見えてきた。高さはそれほど高くはないが、石造りのその塔だけは、新市街の白亜の建物の中で一段と古めかしく見える。
 ベルカーニの塔は、昔の街の境界を示す塔だった。同時に、罪人を閉じ込めておくための牢獄であり、その創りは魔法を織り交ぜられた強固なものになっている。今では、新市街に埋もれて、何の面白みもない道しるべとなっているが、かつて罪人を閉じ込めた塔の扉は、魔法使いでさえ簡単には開けられたい頑丈な鍵と、魔法によって守られている。
 セトは、ハーシュの鍵でこの塔の扉を開けられるか試そうとしているのだ。
「もしも、それが開けちゃいけない扉だったとしても?」
「本質的に開けられない扉なんてないさ。扉ってものは開けるために作られてるんだ。開けちゃいけないなんて話は馬鹿げてる」
 そういって、ハーシュはははっと面白そうに笑った。
「じゃあ、きっとあの扉は、期待に叶うと思うよ」
 そう言って、セトはベルカーニの塔を指差した。塔の外壁は長い時間をかけて削り取られた石壁はボロボロになって、今にも崩れそうに見える。その創りは城壁よりも古く、最初にこの街が出来た頃からずっと、その場所に立ち尽くしているのだ。その扉には何重にも鎖が巻かれた楔が打ち込んである。太い丸太を削りだしたがっしりとした楔だ。その表面に埋め込まれた金属には、呪文の言葉が掘り込まれ、この扉を開けた者には呪いが降りかかるだろう、というような文章が見て取れる。もっとも、そのほとんどは磨り減って、文字はつぶれているけれど。
「この扉が、街で一番頑丈だと思う。もちろんマーの城門よりもね。この扉は、100年以上誰も開けてないんだ」
「へぇ」
 ハーシュは興味を持った様子で扉に近づくと、ぽっかりと空いた鍵穴を覗き込んだ。それはどこの扉にもあるような、ごくありふれた鍵穴だったが、内部にひしめく歯車やら螺子やらは、長い年月が経っているにも関わらず、新品同様に輝いて見える。魔法は今もこの鍵穴の中に息づいており、呪いは健在のようだった。
「面白そうだな」
 独り言をつぶやき、鍵師は腰の方にたくさんぶら下がっている、歯のない鍵を手に取る。太ももに縛り付けている作業袋の中から、2本鑢を取り出し、さっと鍵に走らせる。ハーシュは鍵穴の見える石段に腰を下ろし、そのまま作業に没頭した。

 アルファは夕日に染まる街を歩くのが好きだった。日が傾き始めると早々に仕事を切り上げる魔法使いたちが家路へと付き、夜の賑わいが始まる少し前。不思議と静寂に包まれる時間を、一人でぶらぶらと散歩するのだ。
 そういえば、かつて自分が"黄昏の魔法使い"と呼ばれていたことをふと思い出してアルファは苦笑する。宵と共にやってくる紺碧の夜の色が、アルファの髪の色と似ているから付けられた名前だったが、その名を知る者は今はもう少なくなってしまった。
 その日、彼は何気なくマーの城壁へと足を向けていた。長年の侵食により城壁の力は弱まり、門番のマーが目を光らせているとはいえ、もはやかつてのような強固な防御力を持たなくなった城壁は、ごく穏やかな様子で夕日に染め上げられていた。
 ふとアルファは足を止めた。すぐ後ろからチョコチョコと付いて着ていたシグマも慌てて立ち止まり、何事かと魔法使いを見上げる。アルファは、城壁のそばに座り込んだ人影を見ていた。
「どうかしたのかね?」
 歯のない鍵を鑢で削り、新しい鍵を作りながら、ハーシュは顔を上げた。そこに見知った顔を見つけて、彼は陽気に笑う。
「やぁ、魔法使いさん。散歩かい?」
「うむ。鍵師殿の姿が見えなかったのでね。少年たちはどうした?」
「帰ったよ。子供は、日が落ちる前に家に帰るべきだからな」
 ハーシュは削りだした鍵にふっと息を吹きかけた。
「あんたのところに泊めてもらうつもりだったが・・・。やっぱり、今日中に街を出て行くよ」
「それほど急ぐ旅かね?」
「いいや。でも、ここで見るものはあまりなさそうだ」
 もともと少ない荷物を肩にかけ、ハーシュの快活な笑顔は、どこか影っているように思えた。
「今日、あの子達が案内してくれたんだよ。ベルカーニ塔とか言ってたかな。魔法の扉を開ける鍵を作って、その扉もあっけなく開いたよ」
「ほぉ。それはたいしたものだな。大昔、私のあの塔の中に閉じ込められたことがあったがね、一度も開けられなかったんだ」
 いいながら、アルファはハーシュの隣に腰を下ろした。
「そんなわけないだろ!」
 ふいに、ハーシュが声を荒げたので、アルファの隣にちょこんと座ったシグマが驚いて顔を上げた。当の魔法使いは穏やかに笑いながら、煙草を取り出していた。
「あの鍵はただの穴にすぎなかった。中の細工は見事だったが・・・簡単な鍵で開けられた。魔法が何なのかは知らないが、あんな単純な扉を、大切に守っているこの街に、オレの探しているものはないな」
「ほぉ、では、おまえは何を探しているんだ?」
 ごく柔らかい口調と、ふんわりと吐き出される煙に、甘い香りが混じる。
「このオレに開けられない扉はないのか。それを知りたいんだ」
「それを知ってどうする?」
「もし、他に作る鍵がないのなら・・・オレは、鍵師をやめるだろうな。どこかの街に落ち着いて、つまらない毎日を送らなきゃならない。鍵師なんて、面白くもない仕事なんだ」
 ハーシュはため息をついた。腰のベルトにぶら下がった幾多の鍵。作っては捨て、変形させ、開き、また変形させ。なんども繰り返し、作り変えられこうして共に旅をしてきたハーシュの鍵は、じゃらじゃらと音を立てる。
「鍵の囚人よ。おまえは探すものを間違えているぞ」
 いいながらアルファはローブの下から一本の鍵を取り出した。それは、トバルカインが没収したハーシュの鍵で、マーの城門を開けることができる唯一の鍵だ。
「本来、扉の本質は"閉じる"ことにある。鍵は、解放のためではなく防御のために発明されたものだ」
 ハーシュは不思議そうにアルファを見下ろし、差し出された鍵を受け取った。
「この鍵で、城壁を開けることはできるかもしれないが、閉じることはできない。おまえの鍵は、閉じることを前提にしていないからだ」 「オレの鍵は、外側からでも内側からでも使える!開けられたものが、閉じられないはずがないだろう!!」
「では、試してみるがいい。もっとも、マーがおまえを許せばだが・・・」
 アルファは面白そうに笑いながら、また煙を吐き出した。
「魔法使いは遠い昔に城門を"閉じた"。戦争から、自分達を守るために、外と内を断絶したのだ。それをおまえが開けてしまった。だから再び閉じなければ。トバルカインもそれを望んでいる。だから、この鍵をおまえに返したんだ」
「そんなこと・・・!!」
 反論しようとするハーシュを遮ってアルファは立ち上がった。パイプの燃えカスを叩いて落とし、意地悪く笑うと、マーの城門の方を指差した。
「それができなければ街から出て行くことはできないだろう。世界一の鍵師よ。今度は"閉じる"ための鍵を作ってみるがいい」
 それだけ告げて、アルファは再び散歩に戻っていった。シグマは一言も話さず、後に立ち尽くしたハーシュを何度も振り返りながら、アルファと一緒に姿を消した。


 街の人々がハーシュのことを忘れるのには、あまり時間はかからなかった。元来、魔法使いは、能天気であり、物事には無頓着な生き物だから、城門が開いたからといってすぐに閉じてしまうものだと思っているのだ。
 それに、世界一の鍵師は華やかな登場とは裏腹に、その姿はあっというまに消えてしまったからでもあった。
 ルウはそんなハーシュのことを気にしてはいたものの、例の事件で自主休講した分の追試と、いくつかのテストが被ったおかげで、アルファを訪ねることもできなかったし、ハーシュがどうしたのかも知る術がなかった。
 だが、その日。遅い授業が終わり、セトが夕方の仕事のために大急ぎで帰ってしまった後、ふと思い立ってルウはマーの城門へと足を向けていた。そこは、ルウにとってはお気に入りの場所だった。
「やぁ、マー」
 開け放たれた城門の上で、馬の頭を持つ魔法生物のマーは渋い顔で少年を見下ろした。ガーゴイルであるタァやシィ同様、マーもまたルウ少年のことを知っていた。
「なんだ?小僧。何か用か?」
「別に。ちょっと見に来ただけだよ」
 答えてから、ルウは明けられた城門へと目を向けた。
 魔法使いの街から城門を抜けてその先には、長く舗装された道が伸びている。それは、はるか遠い国々へと続いていく、この街から出る唯一の街道で、行く者と来る者が城門の下でうろうろと動き回っている。以前は、まったく明けられることのなかった城門も、この数十年で大きく開け放たれ、旅人が自由に行き来できるようになったのだと、ルウの年老いた父親が感慨深げに話していたのを聞いたことがある。古い魔法使いは、他国との交流を極端に避けたがるから、50年も前だったら、街へ入ることも出ることもできなかったのだと。
 それが今では、週に何度かの定期便が届き、遠くはるばるやってくる商人を街で見かける。当然、マーはその役目通り、この城門を通る旅人を検閲しているが、以前ほど厳しく目を光らせているわけではないのだった。
 ルウは、いつかこの城門を潜って外の世界へ出て行きたいと願っていた。そして、アルファのように世界中を旅して、面白いものや珍しいものを見聞きし、大昔の魔法使いがそうしたように、魔法をあちこちへ持ち運んでいきたかった。
「飽きぬのか?小僧。旅人など、どこにでもいるだろうに」
「うん。でもさ、ここを通る人たちが好きなんだよ」
 ルウは、お気に入りにしている城門脇の小さな噴水の縁に座って、マーの頭を見上げた。石の馬はわざとらしく鼻を鳴らし、せせら笑う。
「この門を出て行って帰ってくる者もいれば、帰ってこない者もいる。この門から入ってきて出て行く者もいれば、出て行かない者もいる。この街は、あいかわらず閉じていて、ずっと、私が守っている。おまえが見張りに来なくとも、安全だぞ。小僧」
「だろうね。マーの顔は怖いから」
 笑って言うと、マーは渋い顔をしかめた。彼は、自分の容姿について言われることが嫌いなのだ。見た目は、ただの馬のくせに。
「そういえば。あの男も、出ていかんな」
 自分の有能さをアピールするかのように、マーは得意げな声を出した。とはいえ、所詮石で出来た喉は、がらがらと耳障りな音でしかなかったが。
「私を無理矢理こじ開けた、憎きあの男。すぐに追い出されると思っていたのだがな。どうやら、この門から出て行くことができないらしい」
「ハーシュのこと?」
 ルウは驚いて、顔を上げる。
「そうそう。そんな名だったな。あの男。まったく憎い奴だ」
「どうして?どうして、彼は出て行かないのさ。街を一通り見て回ったら、また旅に出るって言ってたのに」
 マーはまた鼻で笑う。ハーシュのことを小馬鹿にしているのだ。
「あの男は、ベルカーニの塔の扉を開けただろう?その呪いをもらったのさ。囚われちまった。もう、簡単には出て行くことなんてできない」

「どうしてさ?ねぇ、マー。どういうこと?教えてよ」 「鍵師を探して聞いてみればいい。もしも、あの男を見つけることができたら、伝えておいてくれよ。私の扉はいつでも開いている、とな」
 ルウは馬の言葉を最後まで聞く前に立ち上がり、街の方へ走っていった。まずは、アルファの家へ行ってみるつもりだった。そこに彼が居なければ、街中の鍵屋を探して、それでもダメならば、母親にお願いして人探しの魔法を使ってもらおうと思った。
 ルウは知りたかった。
 マーの城門は空いているのに、どうしてハーシュは街を出て行かないのか。