魔法使いとドラゴンの話

 一人の魔法使いが砂漠を旅していた。
 共はおらず、前の町で買い入れた駱駝だけが旅の道連れだった。
 白い井砂の海を照らす月が笑う。どこへ行くのか、と問いかけているようだった。行くては果てしなく、先は長い。道はなく、足跡も消えていく。魔法使いはただ一人あてもなく旅をしていた。その先に目指すものはない。かつては、手にしていたはずの地図も、今はもう朽ち果ててしまった。
 駱駝がくたびれて鳴くので、彼はふと足を止めた。
 年若かった駱駝も、砂漠を渡るうちに年老い、最近ではすっかり気力をなくしてしまった。そろそろ、自分の足で歩かなければならないか、と魔法使いは考える。駱駝が死んでしまえば、本当に自分は一人になってしまう。それが孤独かどうかは分からないが、淋しくはなるだろう。いつ果てるともしれない砂漠を一人で渡るのは辛いことだ。
 ふと目の前の月明かりが翳ったので、顔を上げると、黒い空の中を一匹のドラゴンが横切っていくのを見た。
 ほう、これは珍しい。ドラゴンが旅をするのを見たのは初めてだ。
 魔法使いは嫌そうな声を上げる駱駝の頭をドラゴンが飛び去った方向へ向けて、とぼとぼと歩き出した。

 砂漠の中に唐突に現れた小さなオアシスで、ドラゴンはその巨体を横たえて休んでいた。どうやら、相当遠くからやってきたらしい。嫌がる駱駝を引っ張り、近づいてきた魔法使いに気付くと、ドラゴンは、魔法使いの身の丈ほどのある大きな頭をあげて、ぎょろりとした金色の眼で彼を見た。
「偉大なるドラゴンよ。その翼でどこへ行かれるのか?」
 魔法使いが問うと、ドラゴンは大きく翼を広げ、後ろ足で立ち上がった。頭上を覆い隠し、月明かりさえ喰らうその立ち姿を見上げ、魔法使いは感嘆のため息をつく。
 多くの場所を旅し、多くの物を見知っている魔法使いだったが、これほど大きな生き物に出会ったことはない。今までにもドラゴンには出会ったことがあったが、これほど大きな姿を見たのは初めてだった。
 その姿はただ美しく、猛々しく。魔法使いの眼には涙が浮かんだほどだった。
「我を恐れぬ者は珍しい。おぬしは、魔法使いか?」
「いかにも」
 手綱を振りほどいて駱駝は逃げ出してしまったが、魔法使いはそこに留まった。ドラゴンは、喉の奥をならし笑ったようだ。少しよろめきながら、翼をおさめると、ゆっくりとオアシスの淵に身体を横たえ、疲れたという風に鼻を鳴らした。
「人に会うのは、久しぶりだ。おまえの名はなんというのだ?」
「アルファと」
「私の名は、クロエだ。宵の中を旅する魔法使いよ。おまえは、私にどこへいくのか、と訊いたな」
 魔法使いは頷いた。ドラゴンは、面白そうに小さな魔法使いに顔を近づけ、興味深そうに見つめてくる。その瞳は、氷に白く濁りつつある冬の湖水のようだった。年老いて、視力が衰えているのだろう。
「私はな、かつて愛した人の元へ旅をしているのだよ」
「ドラゴンが旅するとは珍しいことだ。それほど会いたい相手なのかね?」
「うむ。とても大切な人だ。かつては、永久の伴侶と信じて疑わなかった人だったのだ。若い頃の話だよ。私の目がもっとよく見通せ、私の翼がもっと遠くまで羽ばたけた頃だ」
 そう言って、ドラゴンは物語を話してくれた。
 クロエは、砂漠を越え、2つの山脈と多くの川と、海を越えたその向こうからやってきた、年老いたドラゴンだった。それでも、彼らの種族の基準から見ればまだまだ年若い部類なのだが、迫りくる衰えはすでに彼の体を蝕んでいた。彼が愛した人は、彼自身よりも一回りも二回りも年をとっており、数えではすでに死期に入っているのだという。
若かりし頃のクロエは冒険好きで、旅を好まないドラゴンとは思えないほど遠くへ飛び、多くの仲間の声を聞き、また多くの生き物とも話をしたと言う。そうした、旅の中で出会ったのが彼女だった。同じ種族でありながら、好奇心と行動力に富んだクロエを嫌う仲間は多かったが、彼女だけは彼を愛してくれた。2匹は永遠に等しい時を共に生きることを誓い合った。しかし、クロエには旅をやめることができなかったのだ。もっと多くの世界を眺め、もっと多くのことを知りたいと願っていたからだ。
 そして、2匹は別れた。以後、二度と出会うこともなく、時は流れ、流れて去ってしまった。
「ドラゴンはな、共に生きる伴侶を探す種族だ。かつて、私はその誓いを破った。この孤独はその報いなのだろう」
「孤独なのかね?」
「さてね。もう、忘れてしまった」
 ドラゴンは、喉の奥でからからと笑った。
「魔法使いよ。おまえはどうだね?一人で旅をするのは」
「うむ。考えたことなどないね。私は孤独に見えるかい?」
「さてね。だが、あまり楽しくはなさそうだな」
「そうか・・・うむ。言われてみれば、そうかもしれない」
 魔法使いもまた、くつくつと笑った。
 魔法使いはもうずいぶん長い間、一人で旅をしている。故郷は失われ、行くあても目的も見つからない。時々、ふと出会った人間が旅の道連れになることもあったが、彼らの時は知らぬ間に魔法使いのそれを追い越して過ぎ去ってしまう。彼はいつでも取り残されていくのだった。
魔法使いもまた、永遠に等しい時間を生きる者なのだ。
「では、どうだろう。偉大なる王よ。私を伴侶にしては」
「なぜだね?」
「私は、王と同じくらい旅が好きだし、遠くまで旅をしてきた。大きな翼はないいが、私には2本の足がある」
 その言葉をよく考えるように、ドラゴンは何度か瞬きして、鼻息を吐き出す。まるで人が困った時にするように、翼を折りたたんで太い後ろ足をせわしなく振るわせた。
「なかなか、面白そうな申し出だが」
 申し訳なさそうにドラゴンは言った。
「やめておくことにしよう」
「どうしてだね?」
 不満そうに魔法使いが問うと、ドラゴンは目を伏せた。
「おまえと旅をするのは、なかなか楽しいだろう。話相手には、おまえはとてもいい魔法使いだろう。しかし、おまえは、私の伴侶ではない」
「私ならば、おまえと同じ時間を生きられる」
「しかし、おまえは私を必要とはしていないだろう。そして、私もおまえを必要としないだろう」
 白い月明かりの中で、ドラゴンの金色の目がキラキラと光るのを見ながら、魔法使いは至極残念だというようにため息をつく。
「おまえは、孤独な魔法使いだ」
「私は、孤独かね?」
「さてね。ただ、知らぬだけかもしれぬ」
「うむ。そうかもしれないな」
 魔法使いは、ドラゴンの美しい姿を見上げて、にやりと笑った。
「だが、少しの間、共に行くことはできると思うのだが、どうかね?」
「うむ。それには同意できるぞ。宵の魔法使いよ」
 ドラゴンは、重そうに頭を上げると、翼を広げて一つ大きく深呼吸した。身体中の古びた骨がぺきぺきとなり、まるで音楽を奏でているようだ。
 魔法使いが、ドラゴンの岩肌のような皮膚によじ登ろうとすると、ドラゴンはふと思い出したように長い首をめぐらせて、駱駝が消えた砂丘の向こうを見た。
「駱駝を置いていってもいいのかね?」
「彼とは長いこと共に旅をしたがね、きっとまた私を追い越して、どこか遠くへ行ってしまったことだろう」
魔法使いもドラゴンも、ほとんど同時にため息をついた。
この世界は、彼らが生きるには、何もかもがとても早すぎるのだろう。その手で掴んだものも、あっという間にすり抜けて消えてしまう。そのうちに、世界の中で生きることを諦めてしまった。
魔法使いもドラゴンも、世界の外で生きているのだ。
「では行くとしよう」
 クロエは、アルファを背に乗せて砂漠の空へと飛び上がった。